善意で敷きつめられた倒錯
■大正大学で行われた「叱られ方講座」をNHKが紹介していて、論議を呼んでいる。オイラが思うのは、企業に都合のいい、必要以上に従順な人材を養成するという点においては、この「叱られ方講座」も、高校で日常的にやっている、挨拶、お辞儀、服装等の「指導」の延長線上にあるように見える。
■叱られ方より、労働法や人権、パワハラへの対処を教えろ、という至極もっともな意見がスルーされて、職場でのトラブルを被雇用者のふるまい方の問題に矮小化されるのも、高校での就職指導のように見える。「労働問題と人権」は、今でも高校では事実上タブーの領域である。
■「若者は、叱られ慣れてないのだから、叱られる側に居着かされて当然」という感じの、講師・大学・NHKの無神経さには、イライラさせられる。コメントを発する学生は、健気にも善意に解釈してマウントをかわす。コミュニケーション講座を標榜しつつ、どこか真剣に切り結んでない感じに見えて歯がゆい。
■学校教育そのものに、ボタンの掛け違えがあるようにオイラは思う。そもそも「若い人は叱られ慣れてない」という認識は、大学らしくない。どんなエビデンスに基づいて言っているのか。若いひとのなかには、叱られ慣れている人もいるのではないのか。ひとを荒っぽい分類にあてはめ印象で判断している。「部落の人は~」「朝鮮人は~」「О型は~」と同じ。こういう物言いや現状認識のことを偏見というのではないのか。その認識に無批判に乗っかるメディアが、さらに偏見の拡大に努めているように見える。
矛盾こそを受け止める
教師が嫌いで学校に違和感を覚えるからこそ私は教師になる、と言い去年教育学部に進学した人がいた。「学校や教師が好きで教師になる」という、いっけん矛盾のない人よりも、本当はこういう人を学校は必要としてるんじゃないか。紋田正博も「学校は好きだ。でも学校は嫌いだ」と言っているではないか。
— 古田 彰信 (@furutaakinobu) 2019年2月24日
スターリン死後のソ連の権力抗争をブラックな笑いで描く映画「スターリンの葬送狂騒曲」は、細かいエピソードが史実通りのくせに、史実と違う点も満載なので、どう見たらいいのか戸惑う。虚構としてのベリヤの死が突出。権力中枢のどす黒さ、すざまじさと、矮小化された政治家のイメージがリアル。
— 古田 彰信 (@furutaakinobu) 2019年2月23日
「プロの教師ならば~」という言い回しが好きな校長がいた。「高度プロフェッショナル制度」という言葉が大手を振ってまかり通る今ならはっきりわかるが、違和感を覚えつつも当時は皆が丸め込まれていた。彼が教師をプロ呼ばわりするときは、きまって短期的な成果を上積みさせたい時だった。
— 古田 彰信 (@furutaakinobu) 2019年2月23日
思ってもいなかった自由
教育が国づくりだとすれば、「平和で民主的な国家及び社会の形成者」を作らないといけないのですが、競争に駆り立て、大企業のために企業戦士を作るための選別機関と化しているのが中等教育の現実です。自由を謳歌するべきなのは子どもであり、教師にはそれを支援する義務があります。
— 古田 彰信 (@furutaakinobu) 2019年2月23日
その通りですね。教師は葛藤し困難を自覚すべきだと思います。矛盾だらけの社会なのですから。民主的に経営されていない中で「平和で民主的な国家及び社会の形成者」を作らないといけないのですから。米国には担任を自分で選べる高校があります。フランスでは職員会議に生徒代表が出席できます。
— 古田 彰信 (@furutaakinobu) 2019年2月23日
学校は統制されている。
自由なようで自由でない。学校は統制されている。「~するな」という教育的配慮の名による管理。点数の呪縛。官僚的な事なかれ主義が、あきらめが、孤立するおそれが、思考や感性を萎縮させる。高校生が社会問題について考えられないのは、貧困な語彙しか持ちえないのは、学校のありように問題がある。
— 古田 彰信 (@furutaakinobu) 2019年2月21日
「生徒会の連合組織の禁止」のような、高校生が知らないところで連帯が断ち切られていること。また指導の名において、子どもの権利に多くの制限がかかることなど、欧米では認められている市民的権利が「制限されて当たり前」だと考えられていることに憤りを感じているのですね。
— 古田 彰信 (@furutaakinobu) 2019年2月21日
おっしゃる通りですね。とくに権力構造が見えにくいことが問題なのだと思います。学校は行政の集権的な末端組織で、民主的組織ではありません。でも教員は主体的な意志で行動する構成員であるかのようにふるまっている。中途半端に「民主的」な姿を「こういうものだ」と高校生は思い込んでいくのです。
— 古田 彰信 (@furutaakinobu) 2019年2月22日
確かに教師は知っているという顔を(そう求められていると感じて)特にしたがりますよね。知識はあっても、そこにどれだけ具体例と実感が伴っているか?と自問したり、今まで疑問だとも感じなかった部分を考え始めると、その無知さ加減に驚きます。私には100分de名著のオルテガもそういう番組です。
— morii tetsuya (@Morii69Morii) 2019年2月22日
現実を見よ
高校生の語る社会問題は、夢見がちで他人事のようだ。まずは地に足をつけて現実を見ることだ。グローバルだ何だという前に、自分につながる具体的な課題を見つめた方がいい。生活の足元には、おかしいこと、ヘンなことが山ほどある。流されるのではなく、どう対処するかで生き方が定まるのだ。
— 古田 彰信 (@furutaakinobu) 2019年2月20日
受験ファシズム
高校を受験しない生徒に教師はこう公言して憚らない。「高校入試に向けてクラスみんなで頑張ろうというムードの中で、“異端”がいると全体の気が抜けてしまう。士気に関わる」耳を疑うが、地方の教育現場の現実はこんな感じ。主体的に生きることは、ここではことのほか難しい。https://t.co/dgDkrFyabe
— 古田 彰信 (@furutaakinobu) 2019年2月18日