卒業式はいらない
「卒業式はいらない」に一票だな。少なくとも官僚的、権威主義的で形式優先の卒業式はNOだ。形式化された指導の一々が「お上をうやまえ」「かしこまれ」「さからうな」「(理不尽でも)言うことを聞け」と暗黙のメッセージを送る。生きにくさを醸成する社会のピースだ。https://t.co/FxhjzXT9Cs
— 古田 彰信 (@furutaakinobu) 2019年3月2日
■というようなことをつぶやいてみた。けっこう本気で思っていたりする。ブロガーのヨスさんという方が、卒業式に対して疑問を整理してくれていた。詳しくはヨスさんのブログを読んでほしい。なかなか鋭いですよ。
◆卒業式の「練習」を狂ったようにして得られるものはなに?
https://yossense.com/graduation-ceremony/
1 卒業式に「練習」っているの?
2 在校生が出席する理由はあるの?
3 授業を削ってまでやる価値があるの?
4 軍隊教育じゃないの?(起立着席や礼の型の強制)
5 性差別じゃないの?(性別で座り方の「型」が変わる)
6 なんで動いたらいけないの?
7 目的は「操りやすい人間」をつくることですか?
8 続いてきたから続けているだけですよね?
9 っていうか「卒業式」自体要らないですよね?
■起立着席やお辞儀の礼法、性差による座り方指導、壇上の国旗、国歌等々、伝統的なタイプの卒業式から感じられるのは「自分らしさはいったん置け。我慢したり、全体に合わせたりすることも、大人になるためには大切だ」という「影のメッセージ」だ。個人を抑圧した「指導」の先には、壇上の国旗に代表される、既存システムへの忠誠を誓わせようという官僚的・権威主義的な欲望が重なって見える。来賓の筆頭者は教育委員会、校長はうやうやしく国旗や来賓に向かって拝礼して、その前に立ち、教委からの使者の見守るなか、成績のもっとも優秀な者を選別して、卒業認定の証書を渡すのだ。
■大多数の教員は、疑問を持たない。「そういうものだ」と思っている。現状肯定を強いられていることにも目をそむける。または矛盾に気づいても、自分には変えられないと思っている。改革は面倒くさい。流されている方がラク。上からの「~して下さい」に、逆らうノウハウがない。立場の弱い高校生に向けて、目先の物言いでつくろってしまう。まあこれは、オイラの事なんですけどね。
■卒業式なら「『きちんとして』いい思い出に」とか言っちゃう。その方がおさまりがいいから。上司もそう言うから。対立しなくていいから。操りやすい人間を作っていることに気づいても、じゃあ生徒の前で何と言っていいかわからない。追いつめられて、つい「言ってしまう」感じ。そこには哲学がない。
■オイラにも「きちんとしろ」と言ってきた過去がある。でも従順なひとを作ることに加担してたことに気づいたから、もうオイラは、そちら側には加担しないと決めた。自分なりの戦略を考えて、自分を保てるようにしながら、全戦全勝とはいかないけれど、教師としての務めを果たす方法を常に考えている。