いま1950年代を見つめる

■ここしばらく偏差値による選別体制の弊害を考えている。皆が受験体制に従属して、何とも思わずそれを受け入れていること自体がホラーだと思う。思えば教師の職場環境がブラック化したのも、高校生が過重な受験負担を強いられているのも、偏差値による選別体制の賜物であり、これらは密接に関連している。

 

文科省の役人もどこかでそれに気がついていて「主体的な学びを実現せよ」と言うが、そのことがすでに矛盾であることには目をつぶっている。上から強制される主体的学びなどありえない。それに、偏差値による選別体制は、力のある高校生ほど負担が重しになる仕組み。学校現場から社会を見る眼や社会変革につながる契機を奪いつくして「主体的になれ」などと、どの口が言うのか。

 

■統制を緩める方向にしか、希望はないと思う。教育の閉塞状況を打開するヒントは、1950年代にある。いま勤務校の古い文献を調べている。思うのは、内容的な水準の高さと、印刷物の 組版のすばらしさだ。学校新聞や文芸誌の活字主体の組版は、完成の域に達していたことが伺える。美しさももちろんだが、思考力や表現力を損なわずに発揮できる枠がそこにはある。多少字が小さくて読みにくくても構わない。もともと新聞や文芸誌のフォーマットは、字が小さい状態で完成していた。字が大きくなって、情報量や論理性が失われた。

 

■日本の高校生は元気だった。生き生きとしている。1956年、授業料値上げに反対して高知の生徒会連合は、十万人署名、一斉同盟休校を用意し県教委や知事と交渉し、授業料減免枠の拡大や値上げ見送りを勝ち取った。また県の高校再編成審議会に生徒代表を送り、教育政策に主張を反映させた。フランスの高校生に負けてない。

 

■いま何が足りないのだろう。枠組みか、それとも熱か。私たちは注意深く見ていく必要がある。