三木清「学生の知能低下について」

■「今日の高等学校の生徒においては、彼等の自然の青年らしい好奇心も、懐疑心も、理想主義的熱情も、彼等の前に控えている大学の入学試験に対する配慮によって抑制されているのみでなく、一層根本的には学校の教育方針そのものによって厭殺されている」現代の高校の実情を書いた文章のように思えるが、この文が書かれたのは、何と1937年。学校を取り巻く状況は、昔も今も変わらないことに驚く。

 

■この文「学生の知能低下に就いて」を書いたのは、哲学者の三木清三木清は、満州事変を境にして学生は変わったと嘆いた。国家の文化・教育政策の積極化が、学生の知能低下を招いていると。社会的関心を持たず、現実に対して批判を放棄していると。なのに学校の成績に関しては神経質。それは、現代の高校生や大学生の姿そのものである。

 

■偏差値による選別体制の下では、人は狭い枠内の「正しさ」と「効率」を追求する。無駄なこと、間違うことを避け、効率的に正解を得ることが求められる。そこには深く物事を考えることは含まれない。時間の無駄だからである。だが三木清は言う。「詩人は言った。「人は努力する限り誤つ」、と。間違いがないということは、真に努力していない証拠であるとすら言うことができる」。

 

■また三木清は、教師側の問題も指摘する。学生の状況は社会や政治の情勢に規定されているのだから、教師が、社会や政治の情勢を見据えないで学生論を説くのは間違っていると。今の教師はさぞかし耳の痛い話であろう。