四国高校演劇祭20周年にむけて

 ひとつではなかった
               古田 彰信

 20周年おめでとうございます。四国高校演劇祭は、最初は古田の働きかけによって始まりましたが、四国四県、とくに愛媛の皆さん、その中でも何よりも川之江四国中央市)の方々の熱心な取り組みによって支えられてきた20年でありました。熱意ある多くの方々の取り組みに、深く敬意を表する次第です。
 20年前、四国ブロックは、四国大会を別にすれば、四県の交流はほとんどありませんでした。もともと四県は山脈を背中合わせにちがう方向を向いています。歴史的にみても、四国同士の交流より、愛媛は広島、香川は岡山、徳島は関西、そして高知は東京などとの交流の方がさかんでした。高校演劇においても、それぞれの県が独自の発展をとげてきた歴史がありました。
 20年前、古田は四国高校演劇協議会の事務局長をしていました。今も忘れられないのは、全国高校演劇協議会の、常任理事会後の酒席で、当時の全国事務局のメンバーからこんなことを言われたのです。
 「テコ入れしてやろうか?」
 要するに、四国ブロックはレベルが低いから、全国事務局のメンバーを審査員として呼べ、指導してやるぞ、という意味でした。丁寧にお断りしました。ただ交流の機会が少なすぎることは確かで、刺激になる機会がもう少しあれば、現場は自然と活性化するだろう。表現に対する焦がれるような思いはすでにあるのだから。そう考えて「全国大会前の壮行公演と四県代表校の公演の場を設ける」ことを主眼として四国高校演劇祭を企画したのでした。会場をどこにするか考えている過程で、川之江高の横川先生から川之江の宇高さんを紹介してもらいました。宇高さんは、川之江紙まつりとタイアップする方法を提案してくれました。2000年のことです。
 この年3月、徳島からの高速道路は川之江まで伸び、高知道松山道高松道と接続して、四県を結ぶX字のハイウェイが完成しました。その中心に位置していたのは川之江でした。「交流」という名前にふさわしい、何と象徴的な場所でしょう。そしてその場所には演劇文化が根付き、演劇を大切に思う人たちがいて、自由に使える会場がある。これを奇跡と言わずして、何を奇跡というのでしょうか。
 そして、交流が始まりました。2000年と言えば川之江高「ホット・チョコレート」の年。2001年の「七人の部長」と並んで、2年連続全国大会最優秀。その後全国大会最優秀を受賞した丸亀高も、この場所で壮行公演をおこないました。この20年の四国ブロックの充実ぶりは、この20年の四国高校演劇祭の歴史と無関係ではありません。今までに上演された100本に迫る作品群。演劇祭で上演される作品を観劇し、刺激を受け、それぞれの学校に持ち帰って、さらに自校の作品として結実させてきた一人ひとりが、四国の高校演劇の豊穣の一端を担ってきたのだと思います。もう「テコ入れしてやろうか」という人はいないと思います。
 四国ブロックの加盟校の少なさはよく話題にあがりますが、四国ブロックの狭さはあまり話にあがりません。小さいことは交流しやすいということで、実は大きなメリットだと思います。その芯に近いところに川之江があったのが、四国にとってはこのうえない僥倖であったと思います。
 そしてもうひとつ。重要なことは、交流が盛んになっても、今でも四県は、それぞれ別の方向を向いているということです。実はこれが四国の最大のメリットだと思います。四国はひとつではありません。狭いうえに多様なのが四国です。もっと言えば、高校演劇に関わる人の数だけ演劇の形はあって、四国高校演劇祭は、12月の四国大会とともに、そのことを確認する場として、20年間、ここにあり続けたのだと思います。 
 今回最後となる四国中央市民会館川之江会館は、その象徴でした。そういえば前の天皇も、先日退位したのですね。お疲れさまと言いたいです。いろいろありがとうございました。
                       (元四国高校演劇協議会事務局長)