「シラタマモの夢 さんごのうた」

 19日、牟岐町海の総合文化センターにおいて、城北高演劇部による「シラタマモの夢 サンゴのうた」最終公演を観劇した。城北高の人たちが演じる「牟岐町の人々」は、ネイティブの方々に受け入れられるのか、観る前はいささか不安があった。だが200人を超える地元の人々に来ていただいて、懐かしくも温かい雰囲気のなか、城北高の皆さんも伸び伸びと演技に集中できて幸せな時間になった。

 

 台本には地元おなじみの牟岐町の固有名詞やデティールが散りばめられていて、それが本公演では起爆剤となった。県大会のときとは全く違った反応。婦人会の方も空気を作ってくれた。孫子を見守るように「○○にソックリやなあ」という感じだった。カーテンコールでは、自分の気持ちを言葉にしようとして、感極まって泣いてしまった部長に対し、もらい泣きまでして応えてくださった。それに対して「お礼のことば」を最後まできちんと言い切った演劇部の部長もよくがんばったと思う。

 

 城北高演劇部の公演のあとは婦人会の芸能大会になった。演歌のカラオケが聞こえてくるなか、そんなこんなでオイラはちょっといい余韻にひたることができた。

 

 地元の人のコメントが徳島新聞に載った。「(城北の人たちが)町の魅力を新鮮な感覚で受け止めてくれた」これに対し城北の人たちは「温かい地元の人たちが、自分たちを受け止めてくれた」と感じることができた。双方向的な「やわらかい交流」が演者と観客の間に成立していた。これって理想的な演劇による交流のありようなんじゃないか、なんてことを考えた。

 

 コンクールに合わせて芝居作りをしている間に、「うまい」「へた」にとらわれて、私たちがいつの間にか忘れ去ってしまった芝居や生活の根本を感じた。高校演劇の大先輩である浅香寿穂先生(牟岐町出身)が「徳島の人の芝居に対する希求の強さっていうのは、もともと人形浄瑠璃が浸透していた点にあったと思います」とおっしゃったのを思い出した。

 

 かつて演劇が地域の娯楽として、生活や地域に密着していた時代があった。芝居は一部の人のファッションでなく、ニッチな愛玩物でもなく、中央へ上っていくための選別装置でもなかった。芝居は生活と分けがたく、ハレの行事として労働や家族や地域とともにあった。芸能に携わったのは「まれびと」である外部からの来訪者だった。城北高演劇部の皆さんは、単なる外部者ではなく、かつてからそうであったように、「まれびと」として迎えられたのだ。このことに、牟岐という地域の歴史と、営々と続いてきた農耕と芸能文化の懐の深さ、重層性を強く強く感じたのだった。

 

 もちろん城北高演劇部の生徒や先生のひたむきな取り組み、そして何よりも、本作の作者である元木理恵という「語り部」を得たこと、これらが正の相乗効果になって「シラタマモの夢 さんごのうた」が成立したことを忘れてはならない。

   牟岐を舞台にした芝居が、牟岐でフィナーレを迎え、収まるべきところへ収まった。これを大団円と言わず何と言おう。(2020年1月19日)