松山商「やまない雨のシタで・・・」に驚いた話

 2021年度の高校演劇の四国大会は、12月に松山で開催された。このとき上演された松山商業の作品についての劇評。大変心に残った作品でした。初出は「四国高演協だより」ですが、だいぶ改稿してみました。

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 松山商「やまない雨のシタで・・・」に驚いた話


                         古田彰信

 2021年12月、松山商の「やまない雨のシタで・・・」を四国大会で観た後、劇評を書きたい書きたいと思っていたのだが、なかなか筆が進まなかった。観た直後の鑑賞メモには「生徒創作の中では、理想にもっとも近い形」と書いたほど個人的には感銘を受けた。何というか、作品として屹立していたのだ。だが、下手に感想を書いてしまうことで、作品解釈が単純化されて自分の感興が平坦になってしまうのも怖かった。いっぽうで何故か最優秀優秀には挙げられなかった本作が、このまま皆の記憶から消えてしまうのは惜しいという思いもあって、2022年春に発行された「四国高演協だより」に同題の拙文を寄稿した。以下の文章は、「四国高演協だより」の原稿を改稿したものである。

 

 松山商の「やまない雨のシタで・・・」のあらすじはこうである。閉校まぎわの島の分校、大雨のせいで学校に閉じ込められた高校生たち六人。非日常な状況の中、ふとしたきっかけで明らかになる秘密の数々。平穏にやりすごしてきた表面的な関係に亀裂が入り、押し隠していた愛憎が噴き出して、高校生たちは戸惑い葛藤する……。

 まずは状況設定、高校演劇離れした巧みさに驚いた。例えば、登場人物を「閉校まぎわの」「島の分校」に置く。閉鎖的で濃い田舎の人間関係の中で育ってきた幼なじみ同士という特別な状況をつくりあげることで、ある意味えげつない、感情むきだしの会話も成立するような関係を創出している。空気感を上手くとらえ、作者は島で生活した実経験があるかと思わせるようなリアリティが醸し出されている。

 

 冒頭シーン。怪談話をする女子たちの場面からはじまる。一人が、血まみれのドッペルゲンガーに追いかけられる「夢」の話をする。無意識や夢の話と言えばフロイトである。本作には、イメージや隠喩を操り、観客をフロイト的解釈に誘うしたたかさがある。
 怪談話は、後半で反復される。「血まみれのドッペルゲンガーに追い回された挙句『その子』は死に、死体は水の中で醜く膨れあがる」。前半であいまいだったモチーフが、反復されることで明確になる。

 特筆すべきなのは、フロイトドッペルゲンガーなどが、話を展開させるための都合のいい手練れの道具としてカタログ的に使われているのではなく、生のリアリティを実感するための「全力の小道具」として使われている感じが芝居から伝わってくるのは、本作が生徒創作だからだろう。懸命さもまた本作の魅力でもあるのだ。

 

 本作で屹立しているのは「死のイメージ」である。ある登場人物は、自殺念慮にとらわれ、リストカットを繰り返す。もう一人は、友人がいじめで自死したことをトラウマとして抱え悩む。死への執着や衝動(タナトス)が登場人物を突き動かす原動力であることを明かす。

 内田樹フロイト的解説の言葉を借りると、ドッペルゲンガーは「自分の中にある自我に統合されない欲望や思念が、別人格として外部化されたもの」「若い人が「自分らしさ」を性急に確定しようとする」ときに使われる※1、とのこと。死について考えることは、生きることについて考えること。ドッペルゲンガーは、単にサスペンスを高めていく手段としての小道具にとどまらない。自分らしい生き方を探ろうとする作り手の切実な青年期の葛藤が、無意識に物語に反映されているとも言えるのだ。

 

 さらに水のイメージは広がりを見せる。登場人物たちは「雨=水」によって「夜の学校=冥界」に閉じ込められる。死の連想によって全員の抑圧の釜の蓋がひらく。荒々しい嵐の効果音や照明の揺れは、限界状況に追い詰められた登場人物たちの、衝動的な行動を後押しし、一人ひとりを、タガの外れた、異様な行動に駆り立てる。
 ある者は、前後の見境いなく皆の前で恋の告白をするし、ある女子は、ことさら攻撃的にクラスメートを罵り「親友」の同性愛的な恋情にも嫉妬し執拗にいじめてみせる。またもう一人の男子は、自分がいじめられていたこと、発達障害的な傾向があることを一人の女子に告白し、わざわざ「僕らは似ている」などと言うのである。

 実際の高校生は、この芝居ほどに軽率で衝動的な行動はしないだろう。観る側も、登場人物たちの唐突さに違和感を覚える展開である。だが作り手は、行きあたりばったりに事件を起こしているのではない。舞台を「閉校まぎわの」「島の分校」に設定し、豪雨で閉じ込められた状況を作り、舞台上の役者の現実に根ざした日常のありふれた関係の中から、死や生の隠喩やイメージを隠し味にして登場人物の衝動を後押しし、「ありえない」ドラマを周到に立ち上げる。「日常の延長線上にある、リアルにタガの外れた世界」、異様で凶暴、ファナティックな修羅場感あふれる必然的な展開を、説明ではなく関係性の中に現出せしめた。そのことを「演劇的」というのである。それこそを高く評価したいと思う。

 

 いっぽうで人物の造型には、作り手の愛情が感じられる。ストーリー展開に奉仕するだけの存在ではなく、内面を深く見つめ、役柄を彫り込み、身の丈に合わせ実感の乗った表現を立ち上げようと格闘した跡が伺えた。葛藤は生きづらさを抱えた人なら十分共感できるもので、「切実さのリアリティ」とでも言うべき醸成が見られる。
 生徒創作の荒々しさの中に、うまさと、役者の素の部分とつながる切実さのリアリティが併存している。そうした複雑さに、僕はこの作品の魅力を見た。

 

 そしてダメ押しは終盤、異様なセリフをさんざん積み上げたあと、登場人物の一人が言う「普通の人間なんか、存在せんやろ」というセリフ、これにはやられた。このセリフは、いじめ、発達障害リストカット、同性愛など、現代の傷つき闇を抱えている登場人物たちを肯定し、浄化する。そしてそれは、目の前の登場人物たちだけに対して発せられたものではなく、世の中のすべての人、闇を抱えて苦しむ人々に「私も「こちら側」にいる」「あなたはそのままでも生きる意味があるんだ」と、その多様性を認め祝福しようという創り手のきっぱりとしたメッセージに思えて、すっかり僕は嬉しくなったのだった。

 

 他、役者の演技は、気持ちがよく乗って、登場人物の個性をうまく描き分けていたし、ドラマを進めるための先生の存在や、デモステネスの名言「逃げたものはもう一度戦える」の使い方、タイムカプセルなども巧妙だと思ったことも記しておきたい。

 

 「やまない雨のシタで・・・」から連想したのは、1990年代「月の岬」「夏の砂の上」といった傑作を生み出していた頃の松田正隆の作品群である。ありふれた何げない日常描写の延長線上に、隠された異様で複雑な感情のしがらみを描いた。そういえば拙作「白の揺れる場所」などの作品も、松田正隆から強く影響を受けたのだった。僕がこの作品に惹かれるのも、自分が作ってきた作品と、どこか類似性があるからかも知れないと思った次第である。

 別宮さん、またいつか、よければどこかで上演させてくださいね。

 

※1 ttps://twitter.com/levinassien/status/1552799368365101057