日本泳法にこだわるワケ

■夏が来ると泳ぐことにしている。もっぱら海か川で泳ぐ。プールには、あまり行かない。

 泳ぎは戦前生まれの父親から教わった。山村で育ち、川で培われた父の泳ぎは、独特かつ実践的なものだった。いわゆる「日本泳法」である。日本泳法とは、クロール、平泳ぎ、背泳ぎ、バタフライの競泳法とは別に、古くから伝承されてきた泳法である。

 今でもオイラは自分でカスタマイズした日本泳法で泳ぐ。顔をあげて状況を読みながら泳ぐ日本泳法スタイルは、海や川では、合理的な泳ぎなのだ。

 

■だが昔の学校教育とは相性が悪かった。町の学校で泳ぎとして認められていたのは、クロールや平泳ぎだけだった。不器用な自分にとって、画一的なクロール練習が苦痛だった。バタ足や息継ぎができなくて、悪戦苦闘する様を、さらされ、笑われ、他の人と比べられている気がした。

 劣等感を植え付けられて、自分の日本泳法は封印し矯正した。本当は、誰よりも長くラクに泳げる泳ぎ方なのに。すっかり水泳が嫌いになったオイラは、その後数十年、プールを敬遠して過ごすことになる。

 

■四〇歳を過ぎた暑い夏の日のこと。勤務校のすぐそばの美しい砂浜海岸が、ふと目に入った。海に呼ばれた気がして、海に入ってみた。気持ちがよかった。小さい頃、時間を忘れて、川に入って遊んでいた頃を思い出した。気がつけば、いつもすぐそばに自然はあった。それなのに、仕事に追われて、目に入ってなかった。

 人生で大切なことはなんだろう。仕事でストレスフルな毎日を送りながら、生きる意味について考えた。誰かのペースで生かされている毎日。自分の気持ちを殺しながら、惰性で生きていていいのだろうか。その夏以来、毎年、海や川で泳ぐことを日課にするようになった。

 

■プールは今でも苦手である。レーンは区切られ、泳ぐ方向も定められている。管理され、ペースを上げるよう急かされる感じがする。顔をあげて泳いでいると水しぶきをかけられる。クロールはいまだ上手く泳げない。水底の線を見ながら泳がされるのにはなじめない。海や川には線は引かれてないから。

 競技泳法には、早く泳ぐために特化されつつ発達してきた泳法、という側面がある。プールはそのために人工的に整備された場所。流れも波もない。これは学校のあり方にも似ている。閉ざされていて、安全が確保されていて、競争と選別の論理が染みついている。長く高校の教師をしてきたが、いつまでたってもこの水にはなじめない。

 流れや波に対応したり、水しぶきを立てずに泳ぐことにも価値を見出せる、そんな多様な価値観が息づいた方が、社会が豊かになる。そんな思いで今は自分の泳法にこだわっている。