「進路状況」を知りたがる人たち

 徳島県城北高校に勤務する大窪俊之先生に、寄稿いただいた。ありがとうございます。

 ことのはじまりは、2022年10月20・21日、徳島新聞に「県内高校別2021年度卒業生の各公立大合格者数」と「私立大合格者数」の一覧表が掲載された。自分の知る限り、徳島県内で、この手の情報が新聞に掲載されるのは初めて。2023年2月現在、徳島新聞のHPにも、一部高校の公立大合格者数が、画像として、無料で見える状況になったまま置かれている(記事は有料)。その後も抗議の声もあがらない。だが高校の教育現場に身を置く者の中には、こうした状況を問題だと感じる者は多い。大窪先生もその一人である。

 公器である新聞が、序列化や偏差値による選別をあおるとは世も末だ。ぜひご一読ください。(古田彰信)

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 「進路状況」を知りたがる人たち

                                                                          大窪俊之

 

 

 大学は法人化。高校も自校の進路実績(卒業生の進路情報)をHPに掲載し、誇りやかにアピール合戦を繰り広げている。UPしていない公立普通科には、「なぜ上げていないのか」という匿名電話が寄せられる。彼らによれば、「進路実績の公開は公立学校の義務」なんだそうである。「サンデー毎日」「週刊朝日」は難関有名大学の高校別合格者数を掲載する号の売り上げが倍増するらしい。数字や比較が大好きなうえに、隣の庭や晩ご飯を覗きたい俗物根性には格好の情報なのである。ほとんどの保護者の関心(生徒の、ではない)は、どこの高校に我が子を進学させれば最も効率よく「いい大学」に合格できるかであって、学問的好奇心や社会的関心のようなお題目は、結局のところ目的のための体の良い方便でしかない。ココへ入ったらコレができる、という即物的な消費者的依存体質が今の教育界には蔓延している。そこで教育行政や学校も、個々の教育者の差こそあれ大局としてはその方向性に随順してしまう。生徒の「向学心」や「社会認識」が涵養されるのはそんな環境なのである。ここに消費行動と化した教育が確立し、学校の利用者である生徒(または消費者意識の育った親)は、十分なサービスを与えてくれない学校にイライラする。教育産業と、教育消費を煽るしか能のないメディアがその気分を補完する。「効率よく良い大学へ」という理念しか持たないなら、もはや高校は「できの悪い塾」と呼ばれるしかない。しかし、ある塾は週に1コマの講座受講で公立高校の学費に相当する受講料を取っており、成績向上の恩恵もほとんど感じない。費用対効果という点では現実の塾もけっして効率よろしくない。安っぽい消費者となってしまった子供や親はそこに疑問を感じなくなっている。

 

 ここで商品の効用について考えるが、資本主義社会における「効果の高い」商品とは、他成員がその商品を持っていないことで相対的に効果が保証される。差異が価値を生む。だが効果が高いと見做された(人気の)商品は購買が伸びることになって、やがてアタリマエな商品となり相対的に効果は下がる。商品の陳腐化がおこる。その後は誰もが持つ商品を自分だけ持っていないことへの不安や引け目が、かろうじて消費行動を支える欲動となる。東京都並みに通塾率の高い徳島県の子供にとって、はたして塾のなにが「有効」だろうか。同じ商品を持っていても使い方に個人差があるので、有効な利用者にだけ効果は担保される。その効果は一部消費者に限定的だが、全体からの受講料に頼らねば法人は維持できない。全入時代と言われて久しい日本の大学は半分がボーダーフリー状態になり、一部の大学・学部だけが一定学力を維持している。同一大学内でも入り方(どれだけ学力や能力を問われたか)によって甚だしい二極化が生じている。その事情を知っている者から見れば、「どこ大学に何人合格したか」「大学進学率の高さ」などという数値は、もはや大した意味を持たない。ただ一般には、消費行動の通例として、全体の傾向と個人の選択を混同してしまう誤謬によってなんとなく欲求が維持される。我が子の医学部合格は、通う高校の医学部合格者数とはそれほど関係もないのに、やっぱり気になって仕方がない。ちなみに県内の公立普通科高校は頻繁に人事交流しており、ノウハウも指導力も大同小異である。

 

 「効率よく良い大学に」という前提を疑ってみよう。「効率」とはいったい何の効率なのか。「良い大学」とは何がイイのか。人の進路や将来の選択は、消費行動と同様にはいかないことも多いはずである。必要な答えだけを、効率よく、効果的に、手に入れるという発想のスマホ的教育プランが、人間を消費し殺してしまう。今日の子供たちには、多様多彩で無駄の多い生活環境の中から自分に合うモノや関心をかぎ分けた経験がほとんどない。それゆえ年収やネームバリューのようなわかりやすい数値の比較によって、自己選択の正当性を裏付けようとするのである。相対的貧困に陥った社会ではもはや冒険ができなくなり、より堅実な将来を選ばせようとする大人社会の価値基準が子供の精神性を支配している。大人の責任である。じっさい、親もわが子の本質をみることができていない。包括的な集団比較の中で他人の子と我が子を弁別する余地が乏しいからである。自分の子しかみていない。「じぶんさがし」なんていうおかしなスローガンを掲げるシュウカツ企業が、単純な数値を重視する受験企業とリンクしている現実を考えてみよ。いつまでも進路を決められない子供に、大人の裁量で、最速で、最適解を提示する。多様に見えても価値判断は線形的。一見矛盾しているかにみえる多様性と優秀性とは、まったく「矛盾」などではなく、むしろみごとな「共存関係」を果たしているわけだ。

 

 単純なわかりやすい比較に浮かれて問題の本質を見失っている。教育行政は各高校に進路状況のHP公開を指示し、なおかつ県内高校の一覧をLINEで一般公開している。これ自体問題だと思うが、それを知らない(かどうかもわからない)新聞社が、読者のニーズを根拠に各高校への進路状況アンケートを実施し、反対の声にも耳を貸さず記事掲載した。記事は反対した学校がどこかを結果的に晒したわけだが、たとえばアンケートに協力しなかった学校に国公立進学の多いトップ校があった場合、この企画は成立しただろうか。不誠実なことである。ニーズのある「読者」とはだれなのか。もっと卑近な意味で高校の進路状況をみる必要がある人、つまりこれから進学する高校を選択する中学生、高校在校生、卒業生、そしてそれぞれの親たち、にはHP以外の方法で明確に情報が伝えられている。したがって私は学校HPに進路状況を掲載することにも反対である。のぞき見趣味の気持ちの悪い俗物漢の、無用な跋扈を許すばかりだからである。あればつい見たくもなる。

 

 進路状況の比較によって高校を選択する者がいかに多かったとしても、入学した生徒たちはそれぞれの現実を生きている。本当の意味で現場の教育に携わる者が実感しているのは、生徒がそれぞれの事情のなかで葛藤や困難を乗り越えていった姿であって、それは軽々に数値にできるものではない。データを軽んじているわけではない。むしろ自分なりの視点によって、見るべき数値をとても気にしてはいるのだ。ただ、内部事情を知らない人間が、適切な統計的検討もなしに、予断と偏見で一面的に把握しようとする姿勢を愚かだといっているのである。難関大学を出て一流企業の総合職。ステータスと豊かな暮らし。そういう一握りの富裕者への羨望をあおり立てる。だがとりわけ経済成長率0%の資本主義社会では、大多数者の貧困が富裕層の豊かさの源泉になっている。大学進学率は家庭の経済状態にも左右される。「大学進学率比較」は図らずも、高校の富裕度ランキングになっていることに気づかないのか。大学は経営のためにこれ以上学生を減らせないから、「お安い」入試を乱発して学力の低い学生だろうと確保せざるを得ない。学力もなく、行ってどうなるつもりもないのに、奨学金を借りても高い学費を払って大学へ進学はする。深刻な問題が別のところにあって、高校の国公立大合格数などに気を払っている場合ではないのだが、新聞記事はそこに触れようとしない。わかっていないのなら記事を書く資格はない。一般大衆はこうしたのぞき見的羨望が、やがて自分の首を絞める構図に気づかない。

 

 公立高校には誰が閲覧するかわからないところに進路実績を公開する義務も責任もありませんよ。消費広告じゃないんですから。ただ、受け持った個々の生徒の実態に合わせて進路指導する責任があるだけです。ところで、アナタどちらの保護者ですか。たいていの中学にはウチの進路情報はお持ちしているはずですが。もし必要ならご来校なさってください。直接私が応対して説明しますから。で、あなたのお名前は?・・・・このへんで問合わせの電話は切れる。でも、今日学校はコンビニのようでもある。お客様のニーズにどれだけそつなく応えられるか。どこの店が一番売り上げがイイか。マスクを外せるようになっても店員は顔すら覚えてもらえない。