英数コースはなかった。

■上下関係が重視され、成果主義に陥りやすい部活動は、選別体制とは親和性がある。部活動はいまや教師をブラックな職場環境に追い込むほどに隆盛を極めている。また部活動によって生徒指導がなされているという側面もある。なぜ生徒指導と部活動に親和性が生じているのか、我々は注意深く考える必要がある。

 

■これとは反対に、教室(HR)の教育力は、犠牲にされ続けた。最たるものは、英数コースの設置だった。リーダーを引き抜き受験に囲い込み、連帯が削がれた。それは、その高校が受験体制に屈服した宣言でもあったのだ。

 

■オイラの現役時代、二つ上の学年までは、英数コースはなかった。城東高に英数コースのできたきっかけは、共通一次と総選制だった。総合選抜制度では偏差値による選別体制に対応できないと判断されたのだ。共通一次試験により大学の序列化が見事に完成されたとき、高校生も校内で序列化されたのだ。当時の教師たちは、どんな気持ちだったのだろうか。

 

■いま選別体制を批判する声は、ほとんどあがってこない。英数コース批判も共通一次センター試験)批判もなりをひそめた。当たり前になって、どこに問題があるのかが不明瞭になった。教師を日々忙しくさせておくのは、批判のとば口をふさぐためなのではないか、そんなことをふと思う。

いま1950年代を見つめる

■ここしばらく偏差値による選別体制の弊害を考えている。皆が受験体制に従属して、何とも思わずそれを受け入れていること自体がホラーだと思う。思えば教師の職場環境がブラック化したのも、高校生が過重な受験負担を強いられているのも、偏差値による選別体制の賜物であり、これらは密接に関連している。

 

文科省の役人もどこかでそれに気がついていて「主体的な学びを実現せよ」と言うが、そのことがすでに矛盾であることには目をつぶっている。上から強制される主体的学びなどありえない。それに、偏差値による選別体制は、力のある高校生ほど負担が重しになる仕組み。学校現場から社会を見る眼や社会変革につながる契機を奪いつくして「主体的になれ」などと、どの口が言うのか。

 

■統制を緩める方向にしか、希望はないと思う。教育の閉塞状況を打開するヒントは、1950年代にある。いま勤務校の古い文献を調べている。思うのは、内容的な水準の高さと、印刷物の 組版のすばらしさだ。学校新聞や文芸誌の活字主体の組版は、完成の域に達していたことが伺える。美しさももちろんだが、思考力や表現力を損なわずに発揮できる枠がそこにはある。多少字が小さくて読みにくくても構わない。もともと新聞や文芸誌のフォーマットは、字が小さい状態で完成していた。字が大きくなって、情報量や論理性が失われた。

 

■日本の高校生は元気だった。生き生きとしている。1956年、授業料値上げに反対して高知の生徒会連合は、十万人署名、一斉同盟休校を用意し県教委や知事と交渉し、授業料減免枠の拡大や値上げ見送りを勝ち取った。また県の高校再編成審議会に生徒代表を送り、教育政策に主張を反映させた。フランスの高校生に負けてない。

 

■いま何が足りないのだろう。枠組みか、それとも熱か。私たちは注意深く見ていく必要がある。

毎日何を伝えているのか

■日本の学校で、自分を見失わないように生きるのは至難のワザだ。職朝で伝達して下さいと言われる事項は、けっこう膨大な量で、クラスで伝達するだけで一苦労。各担当から言われたことを、そのまま伝えて終わり、ということもよくある。教師が咀嚼する時間がないのだ。何も考えずに高校生に下している人もけっこういて、でもそうすると「エゴを捨てろ」「右から左に伝えろ」「何も考えるな」というメタ・メッセージが勝ってしまい、高校生には「黙ってしたがえ」「逆らうな」「何も考えるな」と伝えてしまうことになると思っている。

■教師一人ひとりが、高校生に「どう伝えるのか」そして「どう指導するのか」が勝負なのだと思う。それぞれの教師が考え、それぞれの言葉で語り、それぞれの視点で指導する。足並みは揃えないと浮いてしまうけれど、足並みを乱すことを恐れて、思考停止して上の言うことに追随していると、統制強化に無自覚に加担することになる。教師こそが、ほんとうはそのことをもっと自覚しなければならない。

■たとえは、教員の多くが、偏差値教育を「当たり前」「仕方ないこと」として無意識のうちに受け入れているように見える。競争を肯定することは、選別体制の強化に手を貸すことだし、格差拡大を認め、貧者に厳しい現実を肯定することでもある。それが高校生に受験の過重な負担を課すことにもつながっていると思う。

プールは教室のようだ。

■プール。オイラは海川メインの日本泳法の人なので、プールで競技泳法の人と同じコースで泳ぐと、クロールのペースにひっぱられて、少しオーバーペースになる。片抜き手でピッチをあげると合わせられるが、余裕が削がれ、しぼられる感じになることが多く、バテる。プールという枠に競わされている感じ。

■海では、万一に備える。全力をふり絞るような泳ぎはしない。常に余力を残しておく。余力が海を楽しむ余裕にもなる。一方プールは教室と似ている。競技指向のプールとそうでないプールに分けられ、競技指向のプールは、知らず全力を絞られる場である。コースが固定され、ペースも暗黙のうちに決められる。気がつけば全力にされ、余裕が奪われている。

■プールを教室とするなら、海や川は実社会のイメージである。プールで泳ぐ人の中には「海はコワイ」「川はコワイ」と言う方が結構多い。水泳ならプールで泳ぐことが主目的でもいいけれど、人生においては、実社会で生きる経験も積み重ねて、若いうちから慣れていった方がいいのはもちろんだ。高校は大学受験のためだけの「勉強」に特化した予備校じゃないんだから。

卒業式はいらない

 ■というようなことをつぶやいてみた。けっこう本気で思っていたりする。ブロガーのヨスさんという方が、卒業式に対して疑問を整理してくれていた。詳しくはヨスさんのブログを読んでほしい。なかなか鋭いですよ。

 ◆卒業式の「練習」を狂ったようにして得られるものはなに?
  https://yossense.com/graduation-ceremony/
  1 卒業式に「練習」っているの?
  2 在校生が出席する理由はあるの?
  3 授業を削ってまでやる価値があるの?
  4 軍隊教育じゃないの?(起立着席や礼の型の強制)
  5 性差別じゃないの?(性別で座り方の「型」が変わる)
  6 なんで動いたらいけないの?
  7 目的は「操りやすい人間」をつくることですか?
  8 続いてきたから続けているだけですよね?
  9 っていうか「卒業式」自体要らないですよね?

■起立着席やお辞儀の礼法、性差による座り方指導、壇上の国旗、国歌等々、伝統的なタイプの卒業式から感じられるのは「自分らしさはいったん置け。我慢したり、全体に合わせたりすることも、大人になるためには大切だ」という「影のメッセージ」だ。個人を抑圧した「指導」の先には、壇上の国旗に代表される、既存システムへの忠誠を誓わせようという官僚的・権威主義的な欲望が重なって見える。来賓の筆頭者は教育委員会、校長はうやうやしく国旗や来賓に向かって拝礼して、その前に立ち、教委からの使者の見守るなか、成績のもっとも優秀な者を選別して、卒業認定の証書を渡すのだ。

 ■大多数の教員は、疑問を持たない。「そういうものだ」と思っている。現状肯定を強いられていることにも目をそむける。または矛盾に気づいても、自分には変えられないと思っている。改革は面倒くさい。流されている方がラク。上からの「~して下さい」に、逆らうノウハウがない。立場の弱い高校生に向けて、目先の物言いでつくろってしまう。まあこれは、オイラの事なんですけどね。

 ■卒業式なら「『きちんとして』いい思い出に」とか言っちゃう。その方がおさまりがいいから。上司もそう言うから。対立しなくていいから。操りやすい人間を作っていることに気づいても、じゃあ生徒の前で何と言っていいかわからない。追いつめられて、つい「言ってしまう」感じ。そこには哲学がない。

 ■オイラにも「きちんとしろ」と言ってきた過去がある。でも従順なひとを作ることに加担してたことに気づいたから、もうオイラは、そちら側には加担しないと決めた。自分なりの戦略を考えて、自分を保てるようにしながら、全戦全勝とはいかないけれど、教師としての務めを果たす方法を常に考えている。

処世術より哲学を

 

「難しく考えなくてもいいんだ。考えることが大切なんだ」

 

不愉快でリアル「アイ、トーニャ」


『アイ、トーニャ 史上最大のスキャンダル』予告編(5月4日(金・祝)公開)

 

ナンシー・ケリガン襲撃事件で有名な元フィギュアスケータートーニャ・ハーディングの半生を描いた映画「アイ、トーニャ 史上最大のスキャンダル」に、とても印象的な場面があった。主人公のトーニャが試合後、帰りがけの審査員に聞く。「全部のジャンプに成功したのに、高い点をつけてくれなかったのはなぜですか」審査員は言う。「スケートだけの問題じゃない。オフレコで言うが、君は私たちのイメージと違うんだ。国の代表なんだぞ。完璧な「アメリカの家族」を見せてほしいのに、君はそれに抗っている」

■トーニャは貧困家庭で育った。母親からの罵倒と暴力、夫はDVの常習者。「理想的なアメリカの家族」からは絶望的に遠い。トーニャが「完璧な品格あるアメリカ」をリンクで演じても、審査員の求めるイメージとは決定的に違う。ホワイトトラッシュがフィギュアスケートをやる、そのギャップに苦しむ。ラスト近く、オリンピック前のメイクが決まらずに、顔をグチャグチャにしてしまうシーンが悲しい。

■人は自分の見たいものだけを求める。「オリンピック」となればなおさらだ。観客や審査員は完璧を求める。トーニャがあがけばあがくほど、事態は悪い方へと進む。とくに映画の中で描かれるナンシー・ケリガン襲撃事件の顛末は、悪夢を見ているかのようだ。チンケな思いつきが、愚かな人々がかかわることによって、とりかえしのつかない事件にまで発展してしまう。

■オリンピックがなかったら、ナンシー・ケリガン襲撃事件はなかっただろう。トーニャの人生も、平凡な挫折を味わうだけで終わったはずだ。オリンピックになると皆が我を忘れる。勝者は必要以上に称賛されるけれど、それ以外の者には冷淡と失望しか与えられない。さらに異端や不審者(に見える者)は、笑いものにされ、悪役のレッテルを貼られ、異物として排除される。それこそが現実。哀れなトーニャ。ダメ人間たちが引き起こした「喜劇」だとは、オイラは到底思えない。誰が何と言おうとこの映画は「悲劇」である。

■人は皆簡単に馬鹿馬鹿しく間違える、ほんとうは皆が愚かな存在なのに、不寛容は大手を振ってまかりとおる。息のつまるような現実の空気を、トーニャと一緒に吸った不愉快でリアルな2時間。いろいろ考えさせられた。