選挙ウォッチャーになった

昨年度勤務していた高校の校誌に寄稿した。高校生向け。

執筆は2023年11月です。

 

選挙ウォッチャーになった

                       古田彰信

 

 皆さん、お元気ですか。昨年地理を教えていたフルタです。県庁の、教育委員会人権教育課というところにいて、学校や先生をサポートする仕事をしています。一日じゅう、机に座って、書類を作ったり書類を作ったりして、事務仕事の苦手なフルタは、ああ、性に合ってねえよなあと(笑)思ったりしています。


 四十年間、ずっと学校が居場所でしたから、今でも「教師として何ができるか」という考え方が抜けません。DVDを録りためているのも、いつか学校で使うためだし、イベントや研修で新しいことを学ぶと、ああ、これを生徒さんに話せたらいいのに、などと、ふと考えてしまいます。


 さて、選挙ウォッチャーの話です。きっかけは「シン・ちむどんどん」というタイトルのドキュメンタリー映画を、たまたま観たことからでした(興味のある人は、ぜひネットで検索して下さい)。知る人ぞ知る二人組、ラッパー(ダースレイダー)&芸人(プチ鹿島)が、沖縄知事選を突撃取材する、という内容の映画です。


 突撃取材と言っても、どの候補者に対しても、分けへだてなく拍手なんかして、フレンドリー、のんびり公平でニュートラルな感じなんですね。ああ、こんな選挙の関わり方もあるんだな、新鮮だな、これなら、自分にもできるかも、と思ったのですね。


 選挙に関して、教師や公務員は、法律に縛られてて、できることと、できないことがあります。たとえば、生徒さんに、特定の候補者の演説を「勉強になるから聴きに行け」とか言うのはダメです。でも、一方だけヒイキにするんじゃなくて、公平に扱えば問題ないんですね。特定の候補者の演説を「聴け」はダメだけれど、候補者の演説を分けへだなく「聴け」はオーケー。


 選挙へのかかわり方を工夫することで、高校生に政治に興味を持たせるきっかけにもできる等、教師にできることを広げて示せる経験になると思ったのですね。

 

 演説を聞いて回った

 

 ちょうど一〇月、参議院徳島高知選挙区の補欠選挙がありました。立候補は二名。自民党公認保守系の方と、野党が支援する無所属の方の一騎打ちでした。時間がズレていたので、早速、両方の候補者の出陣式・出発式をハシゴしてみました。

 

保守系陣営の出陣式(左)と野党系陣営の出発式(右)

 

 写真で見れば分かるように、両陣営の雰囲気は、まったく違うものでした。保守系の陣営は、スーツ率が高く、警備も物々しい。聴衆も多く、大型トラックの荷台のひな壇には、国会議員や市長・町長がズラリ。候補者本人は、高知で出陣式ということで、代わりに妹さんが来てました。


 一方、野党系の陣営は、ワンボックスカー上からの演説で、こじんまりして少ない人数でした。駅前ということもあってか、聴衆が流動的で、支持者の他、通勤の人や高齢者の方などが足を止めて話を聞いていました。こちらには本人も来てました。


 演説会、辻立ちなどのスケジュールは、SNSをチェックすれば分かります。その場に行けば、政治家と直接話のできることもあります。「政治は誰がやっても同じ」決してそんなことはありません。少し足を止めて話を聞けば、何を考えているか、どんな人なのかも分かります。

 

 ダメな演説 心をうつ演説


 選挙終盤、ある有名な政治家が応援に来ました。あいにくその日は雨でした。物々しい警戒で、ボディチェックの後、聴衆は狭い区域に詰め込まれて、傘のせいで話者の姿も見えませんでした。司会は「拍手」と絶叫口調で盛り上げようとしてましたが、傘で手がふさがり、拍手はまばらでした。冷え冷えとした空気でした。


 そんななか、大物政治家が登壇しました。彼は、雨の中の聴衆に、ねぎらいの言葉ひとつかけることはありませんでした。明瞭な言葉で聞き取りやすいけれど、抽象的で大所高所からの「力強い」話ばかりで、いまの私たちの目の前の不安への答えは、残念ながら聞けませんでした。隣に立った候補者が、ちょっと気の毒に思えました。


 聴衆の中に高校生も多くいました。こうした空気を、当たり前のものとは思わないでほしい、いろいろな他の人の演説も聴いてほしい、誰に投票してもいいけれど、この演説だけで決めずに、他の人の話をもっと聞いて決めても遅くないんだよ、と無性に言いたくなりました。

 

 ナマの演説からは、人となりや、スタンスが、伝わります。その人が聴衆と向き合う姿が、国民と向き合う姿勢です。演説は、ぜひナマで聴いた方がいい、そう思います。


 今回の補欠選挙の応援演説に来た人で、よりよい私たちの社会を作るために、必要なマインドセットや政策を、具体的に、切々と熱く語りかける人がいました。個人的に話もしました。そういった人の言葉には、心を動かされたし、希望を感じました。

 

 あなたが醒める必要はない

 

 選挙は熱伝導とよく言われます。渦中にいると、光と熱が伝わります。確かに投票率は過去最低で、惨憺たるものでした。でも、皆が冷笑的で醒めきっているわけではないのです。さらに言えば、周りが醒めているからといって、あなたが醒める必要もない。


 光と熱は、人から人へと伝わり、数になります。それが社会を変える力なのです。そうした実感や、変えていった経験があれば、政治を信じることができるし、いろいろな人たちと連帯することもできる。光と熱を持ち続けることができると思うのです。


 選挙ウォッチャー、なかなかよかったですよ。こんなフルタの熱が、遠く離れた皆さんに、どうか伝わりますように。ピース。

 

「進路状況」を知りたがる人たち

 徳島県城北高校に勤務する大窪俊之先生に、寄稿いただいた。ありがとうございます。

 ことのはじまりは、2022年10月20・21日、徳島新聞に「県内高校別2021年度卒業生の各公立大合格者数」と「私立大合格者数」の一覧表が掲載された。自分の知る限り、徳島県内で、この手の情報が新聞に掲載されるのは初めて。2023年2月現在、徳島新聞のHPにも、一部高校の公立大合格者数が、画像として、無料で見える状況になったまま置かれている(記事は有料)。その後も抗議の声もあがらない。だが高校の教育現場に身を置く者の中には、こうした状況を問題だと感じる者は多い。大窪先生もその一人である。

 公器である新聞が、序列化や偏差値による選別をあおるとは世も末だ。ぜひご一読ください。(古田彰信)

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 「進路状況」を知りたがる人たち

                                                                          大窪俊之

 

 

 大学は法人化。高校も自校の進路実績(卒業生の進路情報)をHPに掲載し、誇りやかにアピール合戦を繰り広げている。UPしていない公立普通科には、「なぜ上げていないのか」という匿名電話が寄せられる。彼らによれば、「進路実績の公開は公立学校の義務」なんだそうである。「サンデー毎日」「週刊朝日」は難関有名大学の高校別合格者数を掲載する号の売り上げが倍増するらしい。数字や比較が大好きなうえに、隣の庭や晩ご飯を覗きたい俗物根性には格好の情報なのである。ほとんどの保護者の関心(生徒の、ではない)は、どこの高校に我が子を進学させれば最も効率よく「いい大学」に合格できるかであって、学問的好奇心や社会的関心のようなお題目は、結局のところ目的のための体の良い方便でしかない。ココへ入ったらコレができる、という即物的な消費者的依存体質が今の教育界には蔓延している。そこで教育行政や学校も、個々の教育者の差こそあれ大局としてはその方向性に随順してしまう。生徒の「向学心」や「社会認識」が涵養されるのはそんな環境なのである。ここに消費行動と化した教育が確立し、学校の利用者である生徒(または消費者意識の育った親)は、十分なサービスを与えてくれない学校にイライラする。教育産業と、教育消費を煽るしか能のないメディアがその気分を補完する。「効率よく良い大学へ」という理念しか持たないなら、もはや高校は「できの悪い塾」と呼ばれるしかない。しかし、ある塾は週に1コマの講座受講で公立高校の学費に相当する受講料を取っており、成績向上の恩恵もほとんど感じない。費用対効果という点では現実の塾もけっして効率よろしくない。安っぽい消費者となってしまった子供や親はそこに疑問を感じなくなっている。

 

 ここで商品の効用について考えるが、資本主義社会における「効果の高い」商品とは、他成員がその商品を持っていないことで相対的に効果が保証される。差異が価値を生む。だが効果が高いと見做された(人気の)商品は購買が伸びることになって、やがてアタリマエな商品となり相対的に効果は下がる。商品の陳腐化がおこる。その後は誰もが持つ商品を自分だけ持っていないことへの不安や引け目が、かろうじて消費行動を支える欲動となる。東京都並みに通塾率の高い徳島県の子供にとって、はたして塾のなにが「有効」だろうか。同じ商品を持っていても使い方に個人差があるので、有効な利用者にだけ効果は担保される。その効果は一部消費者に限定的だが、全体からの受講料に頼らねば法人は維持できない。全入時代と言われて久しい日本の大学は半分がボーダーフリー状態になり、一部の大学・学部だけが一定学力を維持している。同一大学内でも入り方(どれだけ学力や能力を問われたか)によって甚だしい二極化が生じている。その事情を知っている者から見れば、「どこ大学に何人合格したか」「大学進学率の高さ」などという数値は、もはや大した意味を持たない。ただ一般には、消費行動の通例として、全体の傾向と個人の選択を混同してしまう誤謬によってなんとなく欲求が維持される。我が子の医学部合格は、通う高校の医学部合格者数とはそれほど関係もないのに、やっぱり気になって仕方がない。ちなみに県内の公立普通科高校は頻繁に人事交流しており、ノウハウも指導力も大同小異である。

 

 「効率よく良い大学に」という前提を疑ってみよう。「効率」とはいったい何の効率なのか。「良い大学」とは何がイイのか。人の進路や将来の選択は、消費行動と同様にはいかないことも多いはずである。必要な答えだけを、効率よく、効果的に、手に入れるという発想のスマホ的教育プランが、人間を消費し殺してしまう。今日の子供たちには、多様多彩で無駄の多い生活環境の中から自分に合うモノや関心をかぎ分けた経験がほとんどない。それゆえ年収やネームバリューのようなわかりやすい数値の比較によって、自己選択の正当性を裏付けようとするのである。相対的貧困に陥った社会ではもはや冒険ができなくなり、より堅実な将来を選ばせようとする大人社会の価値基準が子供の精神性を支配している。大人の責任である。じっさい、親もわが子の本質をみることができていない。包括的な集団比較の中で他人の子と我が子を弁別する余地が乏しいからである。自分の子しかみていない。「じぶんさがし」なんていうおかしなスローガンを掲げるシュウカツ企業が、単純な数値を重視する受験企業とリンクしている現実を考えてみよ。いつまでも進路を決められない子供に、大人の裁量で、最速で、最適解を提示する。多様に見えても価値判断は線形的。一見矛盾しているかにみえる多様性と優秀性とは、まったく「矛盾」などではなく、むしろみごとな「共存関係」を果たしているわけだ。

 

 単純なわかりやすい比較に浮かれて問題の本質を見失っている。教育行政は各高校に進路状況のHP公開を指示し、なおかつ県内高校の一覧をLINEで一般公開している。これ自体問題だと思うが、それを知らない(かどうかもわからない)新聞社が、読者のニーズを根拠に各高校への進路状況アンケートを実施し、反対の声にも耳を貸さず記事掲載した。記事は反対した学校がどこかを結果的に晒したわけだが、たとえばアンケートに協力しなかった学校に国公立進学の多いトップ校があった場合、この企画は成立しただろうか。不誠実なことである。ニーズのある「読者」とはだれなのか。もっと卑近な意味で高校の進路状況をみる必要がある人、つまりこれから進学する高校を選択する中学生、高校在校生、卒業生、そしてそれぞれの親たち、にはHP以外の方法で明確に情報が伝えられている。したがって私は学校HPに進路状況を掲載することにも反対である。のぞき見趣味の気持ちの悪い俗物漢の、無用な跋扈を許すばかりだからである。あればつい見たくもなる。

 

 進路状況の比較によって高校を選択する者がいかに多かったとしても、入学した生徒たちはそれぞれの現実を生きている。本当の意味で現場の教育に携わる者が実感しているのは、生徒がそれぞれの事情のなかで葛藤や困難を乗り越えていった姿であって、それは軽々に数値にできるものではない。データを軽んじているわけではない。むしろ自分なりの視点によって、見るべき数値をとても気にしてはいるのだ。ただ、内部事情を知らない人間が、適切な統計的検討もなしに、予断と偏見で一面的に把握しようとする姿勢を愚かだといっているのである。難関大学を出て一流企業の総合職。ステータスと豊かな暮らし。そういう一握りの富裕者への羨望をあおり立てる。だがとりわけ経済成長率0%の資本主義社会では、大多数者の貧困が富裕層の豊かさの源泉になっている。大学進学率は家庭の経済状態にも左右される。「大学進学率比較」は図らずも、高校の富裕度ランキングになっていることに気づかないのか。大学は経営のためにこれ以上学生を減らせないから、「お安い」入試を乱発して学力の低い学生だろうと確保せざるを得ない。学力もなく、行ってどうなるつもりもないのに、奨学金を借りても高い学費を払って大学へ進学はする。深刻な問題が別のところにあって、高校の国公立大合格数などに気を払っている場合ではないのだが、新聞記事はそこに触れようとしない。わかっていないのなら記事を書く資格はない。一般大衆はこうしたのぞき見的羨望が、やがて自分の首を絞める構図に気づかない。

 

 公立高校には誰が閲覧するかわからないところに進路実績を公開する義務も責任もありませんよ。消費広告じゃないんですから。ただ、受け持った個々の生徒の実態に合わせて進路指導する責任があるだけです。ところで、アナタどちらの保護者ですか。たいていの中学にはウチの進路情報はお持ちしているはずですが。もし必要ならご来校なさってください。直接私が応対して説明しますから。で、あなたのお名前は?・・・・このへんで問合わせの電話は切れる。でも、今日学校はコンビニのようでもある。お客様のニーズにどれだけそつなく応えられるか。どこの店が一番売り上げがイイか。マスクを外せるようになっても店員は顔すら覚えてもらえない。

「高校別大学合格者一覧」への疑問

徳島新聞に掲載された記事に対するフルタの見解を、徳島新聞「読者の手紙」に投書した。批判的な意見なので掲載が絶望的なのは百も承知である。だがスルーして済ませてしまえば、「できる高校」「できない高校」といった、単純化された学力に対する差別的な世間的価値や高校の序列化を、現場が黙認したことになってしまう(他に反応してくれる人が何人かいれば心強いのだが)。

能力主義や学歴主義による差別は、一般化して浸透していて気づかれにくい。多くの学校で問題を生み、知らず知らず我々を蝕んでいる。その結果がこの記事と言える。ttps://www.topics.or.jp/articles/-/785086

 

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(投書/ここから)

 「高校別大学合格者一覧」への疑問
 
■一〇月二〇・二一日付の徳島新聞に「県内高校別二〇二一年度卒業生の国公立大合格者数」と「私立大合格者数」の一覧表がそれぞれ掲載された。どの高校からどこの大学へ何人合格したのかが一目で分かる表である。自分の知る限り、このような表が掲載されたのは初めてであり、とても驚いている。

■徳島では、それでなくても国公立大学に何人合格したのかを気にする人が多い。今回の掲載により、合格者数がそのまま学校間格差と受け止められるおそれがあり、成績による高校間の序列に、さらなる関心が向かい、拍車がかかるきっかけとなりかねない。

■競争の教育の激化は、多くの子供の自尊心を奪い、社会批判を忘れ、自己肯定感を下げ、不本意入学の原因になる。各高校が進めている特色ある学校づくりも、成績による序列化が強化されれば意義が薄れる。また、合格者が少ない場合、個人の合格先が特定されるおそれがあり、プライバシーの侵害につながる。

■社会全体の共通の利益という観点から、公立学校や報道には、もっと慎重であってほしいと思う。新聞の記事になるということは、私塾が「合格者〇人!」と謳うのとは、当然意味が違うのだから。
              (ここまで)


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■投書では触れていないが、アンケートに協力した高校も脇が甘い。今回八十一パーセントの高校が返答したそうだが、そもそも高校のホームページなどで大学別の合格者数を公表している。拾おうと思えばいつでも拾える。

■「学校目標などに、具体的な大学の合格者数(たいていそれは一部の有名大学に限られる)を示し、ホームページに載せるのはやめた方がいい」と、前の学校で校長に毎年言い続けたが、採用されることはなかった。合格者数の多い高校は、宣伝といった感覚で数を出したがる。そうなれば、数の少ない高校も公表せざるをえなくなる。

■今回の記事は、その延長線上にあるとも言える。唯一、「アンケートの趣旨に賛同できない」として回答を拒否した高校が一部にあったことが記事中で触れられていて、それだけがせめてもの救いである。
 

 

価値観の変更を迫る映画

 

■梅野正信「映画で見なおす同時代史」(静岡学術出版)はスゴイ。

 たった142ページ、よくある映画紹介本と思いきや、そのコンセプトがスゴイ。「観た人の世界観・価値観が変わる」そんな映画を厳選して紹介している渾身の本なのだ。影響されて何本か観た。


北アイルランド紛争を題材にした「ブラディ・サンデー(二〇〇二)」。日本に住む人で、北アイルランドの「血の日曜日事件」を知る人はほとんどいないだろう。一九七二年、平和的に行進していたカトリック系住民にイギリス軍が発砲し、罪のない住民十三名が射殺された事件を映画にしている。実話である。
 全編手持ちカメラでの撮影。徹底したドキュメンタリータッチ。観る者に事件現場に立ち会っているかのような臨場感をもたらす。射殺され泣き叫ぶ人々、現場の混乱、隠蔽を図る軍。一瞬たりとも目を離せない、緊迫と告発の映画。


■オイラは40年近く高校で地理を教えてきた。北アイルランド紛争は、地理Bの民族問題の分野で取り扱う。だが、いつも十分ほど説明して終わり。「IRAはテロ活動を行い、カトリック系住民の独立を主張してきた」程度で終わり。
 高校教師は、社会問題の多くを「単純化して終わり」でお茶を濁してきた。時間に余裕がなく教科書は厚く、「やった」というアリバイ作りのために、授業進度は猛スピードで速い。そんな授業が当たり前だった。そんな授業から高校生たちは学ぶ。「社会問題はとりあえず知っているだけでいい、二の次でいい」「制度に順応することが大切なんだ」と。
 そもそもオイラも、北アイルランド問題について語るべき内容を持っていなかった。何となく授業は成立してきたから、やりすごしてきた、という意識すらもなかった。痛恨の極み、である。


■安易な単純化は物事を見る目を曇らせる。単なる知識として、サラリと触れただけでは、社会の支配的な価値観や考え方を肯定するだけで終わってしまう。「映画で見なおす同時代史」をもう少し早くに読んでいたら、そして「ブラディ・サンデー」をもう少し早く観ることができていたらと思う。ほんの少し時間を長くとって、この映画を紹介するだけでも、世界の見え方は変わっていただろう。

 

■二〇〇一年の同時多発テロ以降「テロ=悪」というイメージが強化されている。「暴力はいけない」その通りだ。誰もこの言葉に反論できない。だが同時に、この言葉は、思考停止の呪文でもあると思う。
 暴力を起こすのはテロ側だから、悪者認定を受けるのは、いつもテロ側である。だがチェチェンでもパレスチナでも、そして北アイルランドでも、さらなるテロを仕向けさせたのは支配者側である。支配側の問題は隠されて「テロ=悪」のイメージだけが強化されていく。

 「ブラディ・サンデー」でも、イギリス側の関係者の罪が隠蔽される様子が描かれる。結局、殺戮に関与した関係者全員が無罪になり、そのことがきっかけで、その後数十年にわたる英国とIRAの凄惨な抗争がエスカレートし、三〇〇〇人にも及ぶ犠牲者を数えたのだ。


■我々は、授業の中で「IRA=テロ」とだけ説明していないだろうか。短い説明では、植民地支配の実態や、英国政府の不作為は伝わらない。
 二〇一〇年、英国のキャメロン首相は、血の日曜日事件について、軍の制圧行動が、市民の銃撃に対する反撃でなかったという事実を認め、公式に謝罪した。オイラも、過去の教え子に申し訳ないと思う。そういう意味で、オイラにとっても価値観・歴史観の変更を迫る一冊であった。この本を心にとめて、こうして映画の感想を書くのも、オイラの罪滅ぼしでもあるのだ。

 

■「映画で見なおす同時代史」は、十五本の「価値観・歴史観を変える映画」を紹介している。その中の一本、「ひめゆりの塔」は、これまでに何度も映画化されているが、この本は、一九九五年版の神山征二郎監督・沢口靖子出演のものを紹介している。比較のために、一九六八年の吉永小百合の日活版「ああひめゆりの塔」も観たが、全然違う。そもそも原作が違うってことを初めて知った。
 一九九五年版は、沢口靖子主演というより、どうみても永島敏行が主演であろう。また、一九六八年版では、校長先生をはじめ教師が「いい人」に描かれ牧歌的だが、一九九五年版では、学校・教師が国家組織の末端の協力者として屈服する様子が描かれている。学校は、奨学金の返済を盾に、女学生たちを疎開させずに動員する。そのことが、結果として犠牲者を生んだ。


■考えてみれば我々も、現代の学校で、偏差値による序列化・選別体制を維持するために動員され、制度を支えるための末端の協力者と化している。
 「映画で見なおす同時代史」は、事実に即し、映画の要点を簡潔に書かれている。紹介されている映画は、すべて観るつもりだ。

 映画は観た方がいい。本は読んだ方がいい。世界のことをもっと知った方がいい。そして、効率に流されず、ものを考えた方がいい。喧伝されるコトバを、うのみにしない方がいい。(了)

 

 

 

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日本泳法にこだわるワケ

■夏が来ると泳ぐことにしている。もっぱら海か川で泳ぐ。プールには、あまり行かない。

 泳ぎは戦前生まれの父親から教わった。山村で育ち、川で培われた父の泳ぎは、独特かつ実践的なものだった。いわゆる「日本泳法」である。日本泳法とは、クロール、平泳ぎ、背泳ぎ、バタフライの競泳法とは別に、古くから伝承されてきた泳法である。

 今でもオイラは自分でカスタマイズした日本泳法で泳ぐ。顔をあげて状況を読みながら泳ぐ日本泳法スタイルは、海や川では、合理的な泳ぎなのだ。

 

■だが昔の学校教育とは相性が悪かった。町の学校で泳ぎとして認められていたのは、クロールや平泳ぎだけだった。不器用な自分にとって、画一的なクロール練習が苦痛だった。バタ足や息継ぎができなくて、悪戦苦闘する様を、さらされ、笑われ、他の人と比べられている気がした。

 劣等感を植え付けられて、自分の日本泳法は封印し矯正した。本当は、誰よりも長くラクに泳げる泳ぎ方なのに。すっかり水泳が嫌いになったオイラは、その後数十年、プールを敬遠して過ごすことになる。

 

■四〇歳を過ぎた暑い夏の日のこと。勤務校のすぐそばの美しい砂浜海岸が、ふと目に入った。海に呼ばれた気がして、海に入ってみた。気持ちがよかった。小さい頃、時間を忘れて、川に入って遊んでいた頃を思い出した。気がつけば、いつもすぐそばに自然はあった。それなのに、仕事に追われて、目に入ってなかった。

 人生で大切なことはなんだろう。仕事でストレスフルな毎日を送りながら、生きる意味について考えた。誰かのペースで生かされている毎日。自分の気持ちを殺しながら、惰性で生きていていいのだろうか。その夏以来、毎年、海や川で泳ぐことを日課にするようになった。

 

■プールは今でも苦手である。レーンは区切られ、泳ぐ方向も定められている。管理され、ペースを上げるよう急かされる感じがする。顔をあげて泳いでいると水しぶきをかけられる。クロールはいまだ上手く泳げない。水底の線を見ながら泳がされるのにはなじめない。海や川には線は引かれてないから。

 競技泳法には、早く泳ぐために特化されつつ発達してきた泳法、という側面がある。プールはそのために人工的に整備された場所。流れも波もない。これは学校のあり方にも似ている。閉ざされていて、安全が確保されていて、競争と選別の論理が染みついている。長く高校の教師をしてきたが、いつまでたってもこの水にはなじめない。

 流れや波に対応したり、水しぶきを立てずに泳ぐことにも価値を見出せる、そんな多様な価値観が息づいた方が、社会が豊かになる。そんな思いで今は自分の泳法にこだわっている。

 

 

 

 

抵抗の入門書が

■社会や制度に無自覚でいると、競争や選別の論理に流される。それに歯止めをかけるための、わかりやすい教科書的な入門書が、高校生には必要だな。

 

■書こうとすると、気負いこんで書けなくなる。そういう時は、ただ世界を広く「眺める」に限る。7人の話を書くのに、全校生徒の氏名・属性を設定し、約千人分の架空の名表を作ってみた。自分のこだわりが、数多の日常のひとつにすぎないと自覚するとき、再び書きはじめることができる。

 

医療と人権

■KAMEI Nobutakaさんのツイート。
 ・治療は個人の権利であって、義務ではない
 ・「健康であること」の基準は、個人それぞれに設定されるもので、外的に一律に定めてはならない
 ・「望ましい健康状態」は本人だけが決められるもので、国家や医療機関を含む他者が「健康状態」を決めてはならない
 くらいの原則は医学部で教えとけよと思う
 
■おっしゃる通りだ。上から画一的な価値観を押しつけ、過酷な職場環境には目をつぶる一方で、流れ作業のように「受けさせる」職場の健診や、特定保健指導等が、本人の承諾なく用意される。まるで映画「モダン・タイムズ」の自動食事装置のように。