かすんでいく大切なこと
学校現場に「あれも、これも」といろいろな「教育」が入ってくる。現場でそれまで大切だとされてきた、人権や平和や民主主義を守る取り組みが軽視され、ひそかに浸蝕されている。学校は人権を教育目標に掲げながらも、人権について全く語らない教師の欺瞞について、いずれ公の場できちんと話をする。
— 古田 彰信 (@furutaakinobu) 2018年9月24日
心に残ることば
世の中には「あなたはあなた、変わらなくていい」と「そのままじゃだめだ、戦え!勝て!成長しろ!」って価値観は溢れてるんだけど、何でそんなことを他人に言われなきゃいけないのか。もっと「自分は自分で生き抜くしかないし、さてお互いどうしましょうかね」って話がしたいんですよ、僕は。
— kentaro isaka (@isa_kent) 2018年9月23日
「物言う管理職」「物言う県教委」に
「ロボットになりきりコンテスト」はいらない。平教員ももちろんだが、管理職こそ「物言う管理職」であってほしいし、教委にも「もの言う教委」であってほしい。定型句や伝達だけではなく、自分を起点にして語るという意味においての「もの言う」である。心に届く言葉こそが、子どもを変えるのだから。
— 古田 彰信 (@furutaakinobu) 2018年9月16日
沖縄から世界を見れば
よく、日本の真東は「ブエノスアイレスの沖」とか言われるが、「ブエノスアイレス沖」は正しくは「東京の真裏の点(対蹠点)」であり、そこは真東であるが真西でも真北でも真南でもあると言える地点である。ブエノスアイレスじたいは、たとえば那覇から見れば南南東に見える。https://t.co/ttTE2zENBn
— 古田 彰信 (@furutaakinobu) 2018年9月16日
出る杭は打たれる
やる気がある(と校長が見なした)教員がピックアップされる。激務が課される。淡々と仕事をこなした代償として、栄転や昇進が約束される。その過程で、必要なのは「逆らわないこと」だと囁かれる。こうして、物言わぬ牙を抜かれた腑抜けの教師ができる。管理職と「普通の」教師もまた共犯関係にある。
— 古田 彰信 (@furutaakinobu) 2018年9月15日
おっしゃる通り。もう少し言うと、公立にも学校差があって、成績下位の、小規模な地方の学校ほど攻めの姿勢が強く、成績上位の、大規模で中央にある学校ほど、権威主義的で、守りの姿勢が強くなります。若い頃よく管理職から「たてつくな」と言われた意味が、今の勤務校では非常によくわかる(苦笑)。
— 古田 彰信 (@furutaakinobu) 2018年9月15日
クロールと言えるかどうか
小学校の水泳指導と相性が悪く、クロールが全く泳げなかった。プールは憂鬱な場所であり続けた。今夏一念発起して、プールに通い、下手くそな自己流クロール(と呼べるのか?)を何とか身につけた。泳げるようになるまでに要した期間は、なんと50年だ。コンプレックスの深さに我ながら驚いている。
— 古田 彰信 (@furutaakinobu) 2018年9月6日
考えるな。感じるんだ。
演出家は、演じることを「楽しめ」というけれど、完全に役に没入している状態では、自分自身の状態に対する感覚は低下していて、むしろ演じている瞬間には、「我を忘れている」状態が理想的状態だと思う。まあ舞い上がりがちな役者をリラックスさせるために「楽しめ」というのはありでしょうがね。
— 古田 彰信 (@furutaakinobu) 2018年9月4日
そうですね。何かふだん言ってることと違いますね(汗)。ここは役者の意見を聞かせてくださいな。
— 古田 彰信 (@furutaakinobu) 2018年9月4日
なるほど。オイラは、演じている「瞬間」と、「瞬間」を見て評価している「「少し遅れた今」に生きる自分」に分けて考えてみたわけです。演じている「瞬間」は、無我夢中だけれど、「いい感じにできているな」と「少し遅れて自分を見ている自分」がいて、その意識が入り混じっている感じじゃないかと。
— 古田 彰信 (@furutaakinobu) 2018年9月4日
そうそう。純粋に「いま-ここ」の瞬間に考えていることは、役のことだけで、楽しいって考えていたら、役に没入する邪魔になるんじゃないかなと思って。まあオイラは役者じゃないので、ここらの皮膚感覚がわからないんですけどね。
— 古田 彰信 (@furutaakinobu) 2018年9月4日
あっ、「邪魔になる」のは、「いまーここ」の瞬間に楽しいと考えることですよ。「少し遅れた今」はレイヤーが違うので、楽しいと考えていてもいいんです。
— 古田 彰信 (@furutaakinobu) 2018年9月4日
ずっと没入してるのがいいのかもしれないですけど、没入する自分と客観的な自分が入り交じっています。
— もり まさえ (@frwf_r) 2018年9月4日
ですがそのへんは、人にもよると思いますし、その時の自分の状況にもよるので、その時々によって肌感覚は変わってくるような気がします。
ぜひぜひ。それまでに企画考えておきますね。
— 古田 彰信 (@furutaakinobu) 2018年9月4日
現代の舞台だけでなく能も『演じる』という点において同じ考え方をしているんだろうな〜。面を付け替えて(時には自分の顔すら一つのガワにして)役に『成り代わる』訳だから、そこではむしろ自我は不要なものなんだよな>RT
— 青海クラカズ (@oumi0kurakazu) 2018年9月4日