卒業式




 我が勤務するフリをしている高等学校も卒業式であった。

 3年担任である僕は、ふだん着ることのない礼服に腕を通して、式に参列する。


 本校の卒業式は、まあよくある形の卒業式だ。卒業証書の授与があって、学校長式辞、PTA会長式辞、同窓会長式辞・・・・。何の変わったこともない。

 逆にいうと、新奇なことをやることを、学校は恐れる。

 学校は、なぜか卒業式を「重視」する。「重視」とは、何かあってはいけないという無言の圧力が、学校に広がる、ということだ。行儀よく座っているか、変な返事をする生徒はいないか、きちんと「起立」できるか、「君が代」を歌っているか・・・・。

 そういう空気は、何となく生徒も感じているもので、校則違反の髪形をしている生徒が、今日に限っては「先生、これでいいかな」とわざわざ聞きに来た。

 教師側も敏感になる。卒業証書授与者の名前は、我が校は担任が読み上げるのだが、一言一句間違えないようにと、必要以上に気を遣ってしまう。失敗があれば臨機応変に対応すればいいのだが、変に対応したらまずいのでは、などと考えて、ますます固くなる。変に気にしている小心者の自分が情けない。


 そういう意識が重なりあうせいかも知れないが、卒業式は堅苦しい

 漢語調の、決まり切ったコトバの羅列。しかし、その固い空気を、今年は卒業生代表が打ち破ってくれた。

 卒業生答辞。Yさんの書いたコトバが、自分のコトバとして語られるとき、語る者聞く者の心を揺さぶる。そうしたコトバは、場のありようをも変えていく。それは、校長もPTA会長も同窓会長も成し遂げられなかったことだ。

 答辞のコトバに心を寄せている生徒や教員、保護者の姿を見て、僕も思わずホロリとなる。

 卒業式という場面において、日本のあらゆる場所で、こうしたコトバが、構えの構図を崩し、感動的な卒業式を創っているのだろう。


 僕のコトバも、そういうコトバでありたいと思う。