年度末に窓の外を眺める




 学校も例にもれず年度末である。


 今勤務している公立高校に赴任してから10年。本県では「同一校での勤務は最長10年」と言われているので、年度末に転勤があると覚悟をしていたが、結局「留任」。今の勤務校で一番の古株になってしまった。

 残務整理をしながら、窓から外を眺めてみる。部活動に励む生徒たち。ふくらみ始めた桜の蕾。1年間、変わり映えのしない学校の風景である。

 しかし、10年の間に学校は大きくかわった。教育を取り巻く環境もまたしかり、である。

 学校のありかたは地域により校種により違う。この部屋から見える風景が、日本の教育の風景と言い切ることはできないだろう。しかし、僕にとっては、この窓こそが世界を測る枠組みである。せめて、いろいろなことを見逃さぬよう、心して世界を見つめ関わり続けたいと思う。



 「トーキョー/不在/ハムレット」の宮沢章夫氏の古日記を読んでいると、次のような記述が目に止まる。





Feb.9 2002 「ゆっくり考えながら書いてゆく」


スーザン・ソンタグの『この時代に想うテロへの眼差し』(NTT出版)の序文にこうあった。


 解決を追求すること、そのため必然的にものごとを単純化することは、活動家の仕事です。つねに複合的で曖昧な現実をまっとうに扱うのが作家、それもすぐれた作家の仕事である。常套的な言辞や単純化と闘うのが作家の仕事だ。


 『写真論』をはじめとするいくつかの著作をかつて読んだが、ロラン・バルトの上品さを好み、写真家・荒木経惟を軽蔑するスーザン・ソンタグから、最近、いやな印象を受けていたものの、この言葉には共感した。こんなことはすでに五十年前、坂口安吾がどこかに書いているような気がするとはいえこの言葉以上に付け加えることはない。「常套的な言辞や単純化と闘う」ことは、「わからないこと」をわからないと考え続けることにつながる。表現することに困難を感じることにだけ、表現に値するものがある。わからないのだ。<いま>がわからない。どんなふうに表現すれば<いま>を描けるのか。ただ不器用な手つきで、どれだけ時間がかかってもいい、ゆっくり考えながら書いてゆくしかないのだと思った。



(市松生活)http://u-ench.com/ichimatsu/body_2002_2.html


「複合的で曖昧な現実をまっとうに扱う」教師でありたい。


 これを読んで思ったのは、「複合的で曖昧な現実をまっとうに扱う」のが作家の仕事である、とあるが、「複合的で曖昧な現実をまっとうに扱う」高校教師がいてもいいのではないのか、ということである。

 教育を取り巻く環境はますます複雑化し、世の中の流れは性急になった。学校もその例に漏れない。導入してからわずか3年の「総合的な学習の時間」を、文部科学省は全面的に見直すという。結果の出ないことはしても無駄。つまり成果主義が日本社会にも浸透しつつあるということだろう。目的達成のためには、できるだけ単純化した方が効率的だ。教師や生徒は余計なことを考えずに、自分の未来を早く決め、知識を詰め込み進路目標に邁進すればいい。

 だが果たしてそれでいいのだろうか。こうした構造は、「勝つ」という目的のために突き進んだ太平洋戦争のときとさほど変わっていないわけで、そうした状況下を批判的に生きるためのポイントが、先の引用にあると僕は思ったのだ。


 僕もまた「わからないこと」を「わからない」と考え続けよう。ゆっくりと。しかし決然と。それが僕の来年度の課題である、とここに明らかにしておく。