「おわりはおわり」




 5/23付の記事で触れた雑誌「Cut」のベスト100。上位は「スター・ウォーズ」に「ロード・オブ・ザ・リング」が独占。(僕が信じられないのは、先の「スター・ウォーズ」3部作の中でもっとも凡作と言われた「ジェダイの復讐」が23位に入っていることだ)こうした独占の背景にあるのは、「大きな物語」への志向であると言えるかもしれない。

 我々を取り巻くここ10年間の社会は、1995年の阪神淡路大震災地下鉄サリン事件に始まり、911テロ事件からイラク戦争など「大きな物語」の頻発する時期であった。また、グローバリズムに対して、靖国問題イラク派兵、憲法第9条改正など、我が国ではナショナリズムという「大きな物語」もまた台頭してきている。不安をあおり立てられることによって、社会的にも「大きな物語」にからめとられていくのだ。


 雑誌「美術手帖」2005年6月号で、椹木野衣が次のように述べている。

 「いきなりでなんなのだが、「物語」という設定ほど、絵画のモダニストたちに評判の悪い主題もないだろう。わかりやすさのため、こころみに映画で考えてみよう。そこでは物語とは言わば脚本の存在を意味し、脚本は脚本で重要だが、作品があまりにその「面白さ」に依存してしまえば、見るものは画面そのものよりも、見えていないはずのお話ばかり追いかける結果となり、全然映画を見ていないことになるからだ」

 「絵画も同じだろう。見るものが背後の物語にばかり惹きつけられてしまえば、目前の絵はもはや絵画ではなく、お話に没入するための二次的な媒介物になってしまう。宗教美術はとりわけそういうものだろう。そうでなくとも近代以前の美術は権力者の物語の正当化そのものだ。だからこそ、一枚の絵画をどうやって「物語」から独立させるかということが、絵画の近代化にとって不可欠な条件だったわけだ。ふたたび映画にたとえて言えば、きらびやかなスターたちの聖像よりも、波瀾万丈のイメージを喚起する脚本よりも、あくまで物質的な次元と格闘する演出が重視されることによって、絵画はそのつど獲得されなけれならない」

 (椹木野衣「この絵の中では、何か非日常的な物語が進行している。それがなんなのかわからない。けれども、たしかに今ここで、それは起こっている。それは・・・・・・」美術手帖2005年6月号)


 「イデオロギー」でも「資本主義」でもいい。それら大きな「物語」に奉仕し埋没してしまう表現は、絵画で言えば「イラスト」「デザイン」という括りに入れられ、それらの多くは「芸術」とは呼ばれない。「映画」で言えば、マーケティングされ大ヒットすることを宿命づけられた「大作」がこれにあたるだろう。

 映画の世界は、製作・宣伝に十数億円以上かけられた「大作」と、数百万以下の単位で製作され公開のメドもたたない作品の二極化が激しくなっていると言われる。これはちょうど、現在の日本社会が「格差社会」と呼ばれ、少数の「勝ち組」と大多数の「負け組」に分けられている構造とウリふたつである。

 芸術からはほど遠く、「イデオロギー」や「資本主義」に親和性が強い作品にもかかわらず、そうした「大作」に投票してしまう「映画オタク」(by「Cut」)の鈍感さは、我々がそうした社会にとっぷりとひたりきって、与えられた「大きな物語」に無批判に生きているせいだと思われる。椹木野衣の言葉を借りると「我々は『今ある社会環境に、あまりにも周到に適応しすぎている』」のである。我々は自分自身を相対化しなければならない。そして物語の背後にあるものを見落とさないよう、周到に生きなければならないのだと思う。



美術手帖 2005年 06月号

美術手帖 2005年 06月号


「おわりはおわり」


 僕の勤務する高校の演劇部で関わりのあったカワハラ君という青年が、映画を作ってPFFアワード2005(ぴあフィルムフェスティバル2005)に入選したという知らせを聞いた。その作品とは「おわりはおわり」(120分)。先日その作品を見る機会があったのだが、一見「ああ、これは入選するなあ」と思ったものだった。

 僕も大学時代に映画作りのまね事をしていた時期がある。映画好きが高じた作り手は、自分が前に見た「面白かった映画」の真似をしようとする傾向があり、僕もその例に漏れず、無意識に既成の作品のイミテーションのような作品を作っていたものだった。それに対して「おわりはおわり」は、創作者自身を起点にしながら、オリジナルな表現を目指そうという「渇望」や「決意」が感じられ、その手つきに僕は一番魅力を感じたのだった。

 「おわりはおわり」は、東京の渋谷東急で、7/9(土)13:00〜、7/13(水)10:30〜の2回上映されることになったほか、7月から10月にかけて全国8カ所で上演されるそうである。詳しくはこちらに順次アップされる予定。http://www.pia.co.jp/pff/award/award2005/index.htmlそしてこちらの僕が顧問をしている演劇部のページにも入選の告知をした。http://www.geocities.jp/hollywood_stage7146/200504kaikyo.htm


商業映画でないがゆえの自由な表現


 観た感想を少し。

 おそらくは故意にざらつかせ、コマ落としなどを多用した絵。ブレやフレームアウトを恐れない数分間の手持ちカメラによる長回し。およそドラマらしからぬ訥々としたセリフ。雑然とした部屋。映画の文法を無視した画面は、映画の持つ「ハレ」の部分を削ぎ落とし、我々が生きる「終わりなき日常」の懐の深さをゆっくりとあぶり出してみせる。


 あらすじはこんな感じである。郊外。記憶をなくした兄と、兄の記憶を取り戻そうとする妹。そこにやってくる「知り合い」を名乗る男女。次第に明かされていく真実が、淡々と語られていく・・・・。


 あえて似た手触りの映画を探せば、最近の作品で言えば「エターナル・サンシャイン」だろうか。ざらついた画面、素朴なギターによるBGM。説明過剰を避ける演出など、120分の隅々までがユニークだ。

 台本として、セリフはよく書けていると思う。演出レベルで、あえて方言まじりの不明瞭な言葉にし、役者に意図的に喋らせないことによって、作為的な空気をガス抜きし、役者が本来持っている「おかしみ」をうまく引き出している。思わず笑ってしまった箇所もいくつかある。とくに「風呂のバスタブに入って会話をする」おかしくも哀しい場面や、ガスコンロの火や揺れるタンポポなど、ところどころに挿入されるカットが印象的だった。

 構成も悪くない。カワハラ君には台本を書く力があると思う。序盤から終盤にかけて、記憶によって失われていた真実が少しずつ明らかになり、終盤にちょっとした事件が起こるのだが、最小限の「物語の使用」にとどめる節度ある姿勢には好感が持てる。表現スタイルとのバランスも悪くない。


 ただ、あえて言えば、記憶をなくすのは兄であるが、ドラマ的には妹の方が肉付けされ、どちらかと言えば「妹の物語」になっている。しかし、記憶をなくすという非日常的な体験は兄の体験であり、バランスからすれば、もう少し兄の物語をふくらました方がよかったのかも知れない。