週刊東洋経済2011年8月13日−20日号「台頭する中国にどう向き合うか−鉄道事故で顕在化した日本人の乏しい感受性」藤原帰一ほか


週刊 東洋経済 2011年 8/20号 [雑誌]

週刊 東洋経済 2011年 8/20号 [雑誌]


 中国の高速鉄道の事故報道に、オイラはずっと違和感を覚えていた。その違和感を言葉にしてくれた記事を見つけた。週刊東洋経済2011年8月13日/20日号合併号に掲載された、藤原帰一の「台頭する中国にどう向き合うか−鉄道事故で顕在化した日本人の乏しい感受性」である。その内容を一部引用してみる。


 この事故は、同じ頃に起こったノルウェーにおける極右テロ事件よりもはるかに大きく報じられた。そこには、痛ましい犠牲者への追悼が感じられず、逆に、そら見たことか、中国の高速鉄道は日本の新幹線の比ではないと言わんばかりの、溜飲をさげるような態度がのぞいていた。日本やドイツの技術で造られた高速鉄道なのに独自の特許を申請するなど、新幹線を誇りとする日本人の神経を逆なでするような行為が背景にあったのは事実だろう。だが、経済成長を続け、GDPでは日本を抜いた中国に対する秘められた反発が、この事故をきっかけに吹き出したような印象がぬぐえない。隣国の事故によって自分たちの優位を確認するような、悲しい反応だった。


 だが、それ以上に気になるのは、中国国民への、いわば人間的な共感の欠如である。日本では起こらない事故だという満足感は見られても、人命を軽視する高速鉄道による痛ましい事故を、自分に降りかかった災難と同じように悼む態度が、日本の報道では驚くほど少ない。
 それは、ソマリアなど東アフリカに広がる干ばつについて日本での報道がごく少ないこととも共通する感受性の欠如だ。東日本大震災の犠牲者を見つめる視点と、国外の犠牲者を見つめる視点との間には、極端な距離が開いている。(引用おわり)


 また、創2011年8月号に掲載された、森達也「極私的メディア論/第62回「震災で表出した後ろめたさ」」には、風化していく震災報道と、風化していく我々の意識の問題に切り込んで、こんな記事が書かれていた。


 今回の震災による犠牲者(死者と行方不明者)数は、おそらくは3万人近くになるだろう。膨大な数だ。この数量と規模にこの社会は圧倒された。
 でも(だからこそ)考える。この国では毎年、3万人を超える人たちが、自ら命を断っている。
 スマトラ島地震津波による犠牲者数は22万人だ。四川大地震は9万人で、昨年のハイチ地震に至っては31万6千人だ。これらの報道を聞いたり読んだりしながら(僕も含めて)どれほどの人たちが、その悲しみやつらさを共有していただろう。被害を実感していただろう。大変な災害だとは思いながら、結局は他人事だったはずだ。(引用おわり)


そこには知的後退がある


 この国(とマスコミ)は、外国での事件に対する関心と共感が薄い。テレビや新聞で報道される海外ニュースはごくわずかである。外国で事故や地震が起こっても、日本人の死者が出なければ「よかったね」となる。
 日本とメディアはこんなにも海外に関して関心が薄かったのか? 必ずしもそうではなかったと思う。100万人以上が死んだ1984−1985年のエチオピア(とスーダンの)大飢饉のときは、繰り返し栄養失調の現地の人々の様子が報道された(アメリカでは名曲「ウィアー・ザ・ワールド」の誕生につながる)。悲惨な現実を前にして、教師になりたてのオイラは、どう子供に伝えようか苦悶していたことを思い出す。
 我々は日本人である前に、地球人である。国家間の関係がギクシャクしていても、一人ひとりに罪はない。それを忘れて、偏狭なナショナリズムに煽られて、高速鉄道の犠牲者に対する追悼の意識を忘れてしまうのは、あまりにも悲しい。
 そこには間違いなく知的後退がある。高校では社会科が地歴科と公民科に解体され、文系で世界史・地理・日本史・政治経済・倫理のすべてを選択することは、ほとんど不可能になった(1970年代に高校で学んだオイラは、すべて学んだ)。教科書の内容は薄ッペラになり、選択科目以外の知識をほとんど持たない地歴・公民の教師が採用されるようになった。
 テレビの延長にある日本映画ばかりがヒットし、オリンピックの入場行進でのテレビの各国紹介のとき、間違いと無理解ばかりの紹介が流される。これでは駄目だ、オイラはつくづくそう思う。あきらめと無理解の高校で、オイラは孤軍奮闘する。さながらドンキホーテのように。