第11回とくしま小中高演劇フェスティバル


み な さ ま


 宿題は 夏の暑さに かき消され 思い出されぬ 最終日まで

 
 みなさま、いかがお過ごしでしょうか。演劇部です。
 今年もとくしま小中高演劇フェスティバルで
 夏公演をさせていただくことになりました!


 今の部員数は、女子3人、男子1人という少ない人数で、
 先生の指導のもと、一生懸命けいこしております。


 私たちのけいこの成果を発揮できますよう、がんばりますので
 ぜひヨンデンホールまで足をお運びください。
 よろしくお願いいたします。

                     8月某日 演劇部一同


 「とくしま小中高演劇フェステイバル」は、個人的に気の合った小学校・中学校の演劇クラブ顧問と一緒に運営している催し。今年で11回目。この場は、部員4名という極小演劇部のハレ舞台。オイラは顧問として作品作りに関わっている。出演は一年生3名のみで、3名とも初舞台であった。


 一年生3名には、役者としての潜在的な可能性がかい間見える。モチベーションも高い。ならば育てねばならぬ。例年なら、夏公演は文化祭公演とも演目が重なるので、わかりやすく、ストーリーや構成が明確な既成作品を上演するのが恒例。だが今年は変えた。作品としての完成度は低くてもいい。できるだけ自由な枠組みで、リアリティという足かせをとっぱらって、役者の想像力を刺激し、自由に演じられる作品を選んだ。


 今思いついたが、演技は、毛筆の運筆に例えることができる。「とめ、はね、はらい」は終筆の種類だが、演技で言えば「相手のセリフを聞いて何を感じたか」にあたるとオイラは思う。これに対し、始筆から送筆の部分は、本人がセリフを発して(振る舞いを開始して)相手のセリフやリアクションに対応している部分と言えよう。終筆のあと、筆を紙からいったん離し、また筆を紙につけるまでがリアクションに例えることができるだろう。


 演技において重要なのは「どう喋るか」だけではない。始筆から送筆、終筆までの一連の動き、つまり「どう発するか」→「どう聞くか」→「どう感じるか」→「どうリアクションするか」その連続したプロセスが大切なのだと思う。高校演劇では「どう喋るか」だけに神経をとがらせているだけで、相手の喋っているときに、リアクションをとらない演技のどれだけ多いことか。オイラに言わせると、そんな演技は「うったて(始筆)」を入れて、あとは書かない墨文字のようなものである。


 舞台は、演技を見せる場所である。半紙が何の変哲も飾り気もない和紙であることと同じように、舞台には過剰な装飾はいらない。できるだけ素舞台に近いのが望ましい。紙に装飾をほどこせば、字が立ち上がらないのと同じように、舞台や脚本に過剰な装飾を施せば、役者の存在感は立ち上がらない。台本がストーリーを追えば、役者の演技は説明的にならざるをえなくなる。


 舞台は何も書かれていない半紙。そこに、墨跡のような、セリフとリアクションのメカニカルな連続。


 オイラはそんな芝居をめざしている。