演劇部の稽古に行く


桜の園・三人姉妹 (新潮文庫)

桜の園・三人姉妹 (新潮文庫)


 久しぶりに勤務校の演劇部の近況を。今年度の主力は一年で女子四人。二年女子が一名いるので女子計五名で活動中。


 一年の部員はおおむね言語感覚にすぐれ、自分の実感に沿った意見も言えるし、本読みの段階ではセリフも悪くない。本読みの平均点は、オイラが今の勤務校で見た歴代の部員の中では、おそらく一番高いだろう。身体は未知数だが、演劇をしてみたいという人たちだけに、ことさらに身体感覚が研ぎ澄まされているなどということはありえない。例によって少しだけオタクチックで、いかにも演劇部にいそうな人たちであり、まだまだ発展途上といった趣である。


 最近演劇部でやっているのは、チェーホフの「三人姉妹」の本読み。実は「三人姉妹」の翻案をこの夏にやろうと思っているのだ。「三人姉妹」は難物である。まずは上演時間。三時間くらいか。高校演劇の標準的な上演時間が一時間だから、かなりの長尺である。次に、トゥーゼンバフやらヴェルシーニンやらソリョーヌイやらチェブトイキンやらの、あのロシア人の名前! そして登場人物の多さ!! 高校生は19世紀のロシアの人びとの暮らしぶりなど、ほとんど知らないし、歴史的背景も知らない。要するに最初の入り口のところでつまづいているのだ。


 「三人姉妹」の難解さは、実は折り紙つきである。新潮文庫版の解説で池田健太郎氏が紹介しているエピソードに次のようなものがあった。「チェーホフが上京して来て、初めて「三人姉妹」の原稿を朗読した時、それを聞いた芸術座の面々が、「これは戯曲じゃなくて梗概だ、これじゃ演技できない、役柄がない、ヒントだけだ」と、口々につぶやいたという。当時のロシアのプロフェッショナルな俳優でさえ、役者のふるまい方のイメージが、十分に喚起されなかったということだろう。いくつか戯曲評をあたってみると「チェーホフが何を言いたいのかよくわからない」という正直な感想も多かった。


 平田オリザは、青年団での「三人姉妹」の上演に際して、その特徴を「一人ひとりの発話が、大きなテーマと結びついているのかいないのか、よく分からない」「この作品が大きな普遍性を獲得しているのは、たぶん、この曖昧さにある」と言った。もちろんチェーホフは意図的にそう書いている。「三人姉妹」では、大きな事件は舞台の外で起こる。言いたいことは、役者のセリフや、わかりやすい出来事によって説明的に語られるのではなく、あえて語られなかったり、強調されなかったり、曖昧に書かれたり、省略されたりすることによって、観客(読者)に戯曲のデティールに対する関心を誘い、さらに世界の「背景」や「時間」といった、言葉で表現しようとすると陳腐になってしまう、空気感のようなものまでを舞台に立ち上げようという意図が見える。


 それは、いまこの国に蔓延しているテレビ的表現とは一線を画すものだ。見る者の知的レベルを侮るような「わかりやすい」表現を垂れ流していたら、いつのまにかテレビを観る人びとの知的レベルは、それにふさわしいレベルになってしまった。少々おこがましい言い方を許してもらえるなら、チェーホフを読むということは、テレビに馴らされた高校生を、こちら側の正常な世界へ奪回する試みでもある。その意味では全力で取り組みたい。でも、年を取ることの悲しみなんて、高校生には分からないだろうな。