「君たちがうまいのはよくわかった」



 といったことをことさらにツィートしたのは、3月20日から22日まで開かれていた第9回春季全国高等学校演劇研究大会でいくつかの作品を観たからだった。大会じたいは、とてもフレンドリーで印象に残る大会だったのだけれど、大きな大会に参加するたびに、いつも気になっていることをここでも強く感じたから、少し記しておこうと思う。


 全国大会と銘打って開催されているわけだから、全国でそれなりのセレクションを経て上演校は揃えられている。高校演劇の現場で日々格闘しているオイラにとっては、驚異的な達成を果たしている作品もいくつかあって、感心させられることしきりであった。


 でも、うまい作品が人の心を打つとは限らない。今大会、とても鍛えられたとある学校の芝居を見たときに、オイラは不覚にも「ああ、これは見ていられない」と正直思ってしまって、どうにも耐えきれず、途中で退場してしまったのだった。


 途中退場というオイラの振る舞いを正当化するつもりはない。上演校や他の観客に迷惑である。それでも退場せざるをえなかったのは、体調が悪かったこと、陣取った席が舞台からの圧力をまともに受ける席だったこと、そしてほぼ満席に近く、オイラが人いきれから受けるストレスを強く感じたことなど、プライベートな個別の理由があったからだ。


 いつもなら最後まで席に座っていただろう。だだ、今回オイラはこう思ってしまったのだ。「君たちがうまいのはよくわかったよ。でも、そのことをアピールすることに、どんな意味があるんだい?」


 その演劇部の人たちは、その達成を得るために、血のにじむような努力をしてきたように見えた。だがオイラは逆に居心地の悪さを感じた。役者たちは、わき目もふらずにある種の価値観の一方向のみを信じて突っ走っているように見えたからだ。演劇はもっと多様であっていいんじゃないか。むしろ下手でもいいじゃないか。技術が低くても、心をうつ作品はゴマンとあるじゃないか。何で君たちはそんなにかたくななんだ。そう思ったのだ。


 観客には、多様に解釈する自由がある。100人の観客がいれば、100通りの解釈がある。観劇とそれによって引き起こされる感興は、プライベートなものである。すべての観客が満足する方法論なんてない。


 演劇はスポーツとは違う。スポーツなら技術が数値化され評価される。技術は高ければ高いほど評価される。だが演劇は「観客ありき」である。目の前の観客とどう斬り結ぶかである。いくら技術が高くても、観客の心に印象を残せなければ意味がない。技術が高ければ高いほど感動を呼ぶとは限らない。


 演技にしろ演出にしろ、観客の多様性を無視して、ひとつの価値観で作品を染め上げて、タイトに作ってしまうのは、演劇という芸術の特性上、あまり効率的ではないとオイラは思うのだ。「その価値観にノレない観客」はどうすればいい? 様々な感興があるのに、それらを捨象してある種の価値を重宝するのは、物事を単純化し、イデオロギーを流通させるのみで終わっているのではないか。


 世界はとても多面的で複雑であり、だからこそ魅力的なのである。演劇は、そんな魅力的な世界を描きだすためのツールである。複雑な世界を描きだすことは難しい。難しいから、表現者の側にゆらぎが生じたり葛藤が生じたり、戸惑ったりする。だからこそ人間的であり、そうしたゆらぎや葛藤そのもののなかにオイラは魅力を感じるのである。