「きかんしゃトーマス・勇者とソドー島の怪物」
映画「きかんしゃトーマス/勇者とソドー島の怪物」存在しない怪物の影に怯えるパーシーが、友人に励まされ、勇気と友情を獲得し実感していく。皆が弱く葛藤する存在で、だからこそ愛しいということを、愚直にまっすぐ語る、王道を行く秀作。泣けます。https://t.co/EEgmsgJcLw
— 古田 彰信 (@furutaakinobu) 2015, 4月 27
3歳の同居人と一緒に映画館で見た「きかんしゃトーマス・勇者とソドー島の怪物」。幼児向けということで、ちょっとナメていた。反省。
同じ幼児向けでも「それいけ! アンパンマン」などとはレベルが違う。「アンパンマン」は、毎回手を変え品を変えてはいるが、「悪のたくらみが善によって阻まれる」というのがいつもの基本フォーマット。悪と善は固定され、お約束の世界のなかで、バイキンマンとアンパンマンのドタバタが延々と繰り返される。ドラマとしてはお世辞にも見るべき点があるとは言えない。「トムとジェリー」のようにスラップスティックなドタバタの面白さでもあれば見どころもあると言えるが、工夫のないストーリー展開と、どこかで見たイメージの安直な再生産が鼻につき、オイラの知る限り「アンパンマン」は(大人げなく言うと)まったく買えないのである。
ところが「きかんしゃトーマス・勇者とソドー島の怪物」には、ドラマがあった。怪物がいると思い込んだ臆病者のパーシーが、友達のはげましを得て、勇気と失いかけた友情を取り戻す。特筆すべきは、ドラマの中心にいる機関車たちが、みな葛藤する存在であるということだ。トーマス、パーシー、ジェームズたちが、勇気と友情の狭間に立って、どうするべきか悩み、決断していく。小学生対象ならいざしらず、幼児対象でこんな「ちゃんとしたドラマ」を提示して理解できるのだろうか、と心配になるほどだ。
一緒に見た3歳の同居人は、途中で何度も怖くなり、スクリーンから目をそむけ、オイラにすがりついて泣いた。実態のない影におびえる劇中のパーシーのおくびょうな姿は、同じ「影」を観ておびえる彼(3歳)の姿と重なる。だが「影」におびえているのは彼だけでは決してなく、もちろん我々大人一人ひとりの姿でもある。そういう意味でこの映画には普遍性があると思う。