シネコンは満席だが「ハウルの動く城」




 

 郊外にシネコンができて、旧来の映画館には閑古鳥が鳴いている。

 「ハウルの動く城」を、市内の映画館で観た。

 郊外のシネコンより空いていて、ゆっくり観られるだろうと思ったからだ。

 予想通り、ガラガラ。客は15人くらいか。


 そんな状態なので、クラスの生徒にもバッタリ会ってしまった。

 「おいおい、お前は、これから受験ではないか!」


 しかしまあ、こういう話は枚挙に暇がない。かつて、Y先生が、

 高校演劇の県大会を観に来たN君(当時高校3年:現在某校演劇部顧問)を

 会場で追い返したというのは、県内の顧問の中では有名な話。

 そういえば、僕も高3の11月、BOSEらと一緒に

 「あゝ新婚」を観たっけ。


 僕の観た日は、メンズ・デー。毎週木曜日。1000円。

 これはシネコンにはない割引。

 また、ドライバーズ割引というのもあって、

 駐車券を持っていけば1000円にしてくれる。

 (ついこの間まで僕はそのことを知らなかった!)

 でも、僕は、遠くに駐車して、車に積んだ自転車で、映画館へ行き、

 正規の料金を払って入るようにしている。駐車場代を払うよりは、

 せめて映画館が利益になるようにした方がいいと思うからだ。


 割引には、市内の旧来の映画館の共通ポイントカードもあるが、

 「この映画館で使えます」と、名前の載っている映画館の半分は、すでにない。

 シネコンが開館して以来、ここ数年の間にバタバタと閉館してしまった。

 ずっと、人口25万のこの地方都市で映画を見続けてきた者にとっては、

 寂しい限りである。


日常に根を生やす「ハウル



 で、「ハウルの動く城」であるが、

 悪評も多いので、おそるおそるの鑑賞だったのだが、

 面白く観ることができた。ほっとした。

 とくに、ちょっとした絵の動きやセリフが面白い。

 さりげない描写や日常をフィルムに刻み、

 反復や誇張の面白さをうまく拾っている。

 アニメならではの、躍動する日常だ。

 スカートをはたいてみたり、老婆の歩き方、

 とくに、階段を上っていく年寄りと魔女の競争なんて、

 僕には抱腹絶倒だった。


 反面、宮崎作品でよく描かれる飛翔シーンの躍動感には欠ける気がした。

 それは、観客が感情移入するべきソフィーが、主体的に跳ぼうとしていないからだ。

 彼女は、地に足をつけて生きようとしている。

 それは「千と千尋の神隠し」にもつながるモチーフだ。

 今回、宮崎が日常的な描写にこだわるのが分かる気がした。


 多くの人が言うように、確かに、展開、とっ散らかっている。

 とくに、後半、唐突でわからないことも多い。

 トータルでみれば、優れた作品と言えないのかも知れない。

 宮崎は、無意識の働きを制御せずに、

 この作品を創っているように思われる。

 もちろん、それが許されるのは、見せる技術が伴っているからだろう。

 しかし、こうしたおおらかさが、僕にとっては、とても心地よい。


 「ハウル」では、国家(戦争)と個人の幸福を、対比して見せている。

 宮崎作品と言えば、もはや国民的映画。

 しかし、「ハウル」に寄せる国民の期待を裏切って、

プライベートに描きたいものを描いてしまう宮崎と、

 「ハウル」で、日常的な些細な表現を描こうとする姿勢を貫く宮崎に、ブレはない。

 その自分勝手さこそ、宮崎の確信犯的な「反権力」の表明ではないか。

 


ハウル」を読み解く



 「ナウシカ」などでは、あれだけ克明に世界を描いたのに

 「ハウル」では、ドラマの背景をほとんど描かない。

 「戦争」は、何のためにおこなっているのか、

 そもそも、誰と誰が戦っているのか、分からない。

 (それは、主人公ソフィーの女性的な視点で

  ドラマが描かれているからであるが)


 かわりに、いろいろな象徴的なアイテムが、投げ出され、

 解釈や意味づけがなされないまま、横たわっている。

 それが、ドラマの中でどんな意味を持つのか、理解に苦しむ箇所も多い。

 まるで、宮崎の見た「夢」をそのまま差し出しているかのようだ。

 逆に言えば、象徴的に作品を読み解くには、

 とても刺激的な作品である、とも言える。

 今回、宮崎は、パンフにも、作品解釈の文を寄せていない(そうだ)。

 (確認していないので、誤認だったら教えてほしい)


 宮崎も、積極的に読み解かれる読み方を望んでいるのではないか。

 ああだこうだと言っている観客を見て、ニヤリと笑っている宮崎の姿が目に浮かぶ。



ハウル」の俗流ユング的解釈



 僕なりの「ハウルの動く城」についての解釈については以下の通り。


 城は、オタク的感性の象徴、ハウルの心象風景。

 自身を豚に投影させたりする、宮崎の露悪的表現。

 城が身にまとったガラクタは、脆い自我を守るためのヨロイ。

 城がよたよたと歩き回るサマは、現実にうまく対処できないサマだ。

 部屋が汚い。いかにも自閉的。

 魔よけの品で部屋を埋め尽くす。これも自閉の象徴。

 そしてハウルは、夜になると、鳥(悪魔)に化けて戦場を飛び回る。

 穿った見方をするなら、

 それは、全能感に包まれながら、夢想の世界に耽溺しているボンクラ男の姿。

 姿が徐々に悪魔に変わるのは、自閉的行動への警告であり、懲罰だ。

 「入りこみすぎると、怪物になるよ」と。


 女性「ソフィー」は、そうした心性を「掃除」する。

 ここでは、女性は、日常に軸足をおき、

 積極的に飛ぶことにも興味を持たず、

 (この作品、他の宮崎作品とは違い、飛翔のワクワク感は少ない)、

 外で起こっている戦争や社会の動きに関心を持たない。

 ある意味、宮崎のステロタイプな女性のイメージが感じられる。


 ハウルと出会うのは、老婆だ。これは、「母」

 (現にソフィーは、ハウルの母となって、魔法使いのもとへ出かけていく)

 ハウルは、母性によって癒され、守られ、成長し、

 女性(若きソフィーになっている)と出会い、

 家族を作る。(といっても今時を象徴するような疑似家族である)

 ラストで、「家族」ができたときには、ハウルの城は、壊れて、もうない。

 これは、ハウル(男)のオタク的感性からの「脱皮」だ。

 パートナーをみつけ、現実に足をつけて、日常に男が着地したとき、

 そこには、「オタク的ヨロイ」である「城」は、必要ない、ということだろうか。



ゴジラ Final Wars」と「ハウル



 と考えていたとき「ゴジラ Final Wars」を観た。

 いやあ、面白かった。これは必見。

 旧来のゴジラ映画の約束事を、大きく逸脱していて、

 ストーリーや細部のリアリティはめちゃくちゃ。

 だが、香港映画のような、えもいわれぬエネルギーに満ちている。

 既成の枠にとらわれず、旧来の価値を破壊する映画である。

 そういう意味では、音楽で言えばロック的。

 ちなみに劇伴もロックだった。キース・エマーソン

 ダンディズムを「己のスタイルを貫く」と解釈するならば、

 オタク趣味炸裂、究極のダンディズムがここにある。ほめ過ぎかな。


 妖星ゴラスやらハリウッド製娯楽映画からの引用やら、

 ドン・フライやら宝田明(昔は百発百中だったらしい!)やら、

 オタク的ガジェットが、まるでおもちゃ箱のように詰めこまれている。

 「映画秘宝」的感性、ボンクラ男の夢の具現化だ。


 「ハウルの動く城」と対照的なのは、

 そうしたオタク的感性から生み出された表現が、

 次から次へ繰り出され、あっけらかんとしていて、肯定的な点だ。

 「ゴジラ Final Wars」は、猥雑で未整理だが、

 エネルギッシュで、イケイケである。

 「ハウルの動く城」は、端正だが、ゴジラほどのエネルギーは持たない。

 そして、現実に足をつけて生きることをしない「オタク的感性」に否定的だ。

 

 ふたつの作品とも、オタク的感性が生み出した作品であることは間違いない。

 では、違いは何かというと、

 結局、宮崎「ハウル」は大人であり、

 北村「ゴジラ」はガキであるということなのだろう。

 (ただ、大人の作品が見ごたえがあるか、といえば、

 一概にそうとは言い切れないと思う)

 そういう意味で、ふたつの作品は、表裏一体である。



ハウル」/フェミニズムの視点から



 さて、もう少し続く。「ハウルの動く城」の話。

 今度は、僕が違和感を覚えた部分をあげてみよう。

 一番気になったのは、ステロタイプな女性のイメージを、

 無防備ともいえるほど安直に使って、作品を組み立てている点だった。

 そのことについて、BOSE氏から、的確な指摘をメールでいただいたので、

 その部分を紹介してみよう。

 

 >確かにこれもまた永遠の中学生の妄想。

 >守りたい美少女であり、癒してくれる母親であり、

 >自分を慕ってくれる恋人であるソフィーは、ほんまに男の勝手な妄想キャラ。

 >もちろん、今までの宮崎女性キャラは常にその三役をこなせる者ばかりだったり、

 >あるいは役割分担して登場したりしてたけど、今回はあからさま。

 >また、脚本書かずにどんどん絵を書いてしまう宮崎の暴走ぶりが

 >一番出た作品ではないだろうか。

 >だからこそ、時空を超えて広がった話が、隣国の王子が復活して戦争は終わり、

 >主人公とヒロインがキスしてハッピーエンドなんて、

 >カタルシスのない締めくくりになったのだと思う。

 >あ、ラスト、別の意味で「城」あったやん。家庭って城なんだろねぇ、あれ…。


 納得、納得。確かにその通り。

 前章で、宮崎のことを、僕は「大人」と評したが、

 女性の描き方に関しては、その評価を改めねばなるまい。

 逆に、そうした部分に先鋭的ではないからこそ、

 今の日本で大衆的な人気を誇っているとも言えるかも知れない。



「エイリアンVSプレデター」ふたたび



 1/4の日記で、

 「エイリアンVSプレデター」について書いた。

 この映画の主人公は、「ハウル」とは対極の、戦う女性だ。


 ヒロインは、映画中で、死んだエイリアンの尾を槍に、頭部を楯にして戦う。

 H・R・ギーガーが作り出したエイリアンの異様な姿は、

 男性のシンボルにほかならない。

 ここまでやると、「もののけ姫」というよりは、「アマゾネス」のイメージ。

 狩猟民族的で、並の男は近づけない感じだ。


 これに対し、プレデターは、身の丈2メートル以上、

 知性も高く、誇り高いという設定。

 言わば、理想の男のメタファー。

 顔は醜い。この点、この映画は、男性観客向けの映画なのだろう。

 男性の観客は、ヒーローの顔の美醜は気にならない。

 むしろ醜い方が、感情移入しやすい。


 ヒロインは、そんなプレデターと共闘し、

 エイリアンを倒す。そして、プレデターの「パートナー」として認められ、

 戦士の印を顔に刻まれる。頬に傷がつき、肉が見える。

 これは、セックスを連想させる。

 無辜から勇士へ。象徴的なシーン。


 反面、登場する人間の男は、典型的なイタリア男を筆頭に、

 イマイチ頼りなく印象が薄く(役者としても有名な者は少なく)、

 結局、無残にも一人残らず殺されてしまう。


 女性の地位が上昇して久しいが、現代のヒロインに釣り合うのは、

 今や超人的力を持つ宇宙人しかいなくなった、ということか。

 もちろん、こうした表現は、

 マンガ的かつ乱暴すぎて、笑えない冗談でしかない。

 「ハウル」にしろ「エイリアンVSプレデター」にしろ、

 こと女性の描き方については、

 創り手が誠実に対象にむかいあっている観が希薄で、

 ステロタイプな表現に陥っているように思えるのは、僕だけではあるまい。




 

 

上の文は、年末、「ハウルの動く城」を観たあと、つれづれに書き散らした文章をまとめたものである。

 初出は、掲示板「感想を叫ぼう」ほか。

 http://8040.teacup.com/zaki/bbs

ハウルの動く城@映画生活