「トーキョー/不在/ハムレット」評つづき




 (2/1からのつづき)


 欠落。または隠蔽。または不在。「トーキョー/不在/ハムレット」では、タイトルが示すとおり、これらが様々なレベルでモチーフとして何度も濃密に奏でられ、重層的で多様に解釈できる作品に仕上がっている。


 特に濃密に欠落を奏でるのが、演出だろう。言葉にならない言葉、手話、受け取らないキャッチボール、脱ぎ散らかす男と畳む女、ダンス、隠蔽された白い部屋での会話など、場面ごとにさまざまな工夫が凝らされていて、飽きることがない。だてに芝居の製作期間が長かったわけではないことが伺われる。

 複雑で難解な物語に対して、こうした演出の意図は明快だ。一貫してコミュニケーションの不全(欠落)がテーマとして何度も変奏する。都会と郊外のズレや、人間関係のズレ(近親相姦や殺人)など、ドラマの大枠にあらかじめ企まれているズレはいうまでもなく、片方が受け取らないキャッチボールなど、おそらく立ちの段階で即興的にできあがっていったと思われる「身体のありようのズレ」や「コトバのズレ」を形にしている部分が、演劇的で印象に残る。


 演出の意図は、細かいところまでに及ぶ。たとえば、ちょっとした立ち位置。舞台の大きさを考えれば、常識的には、ふたりの役者がそんなに近い距離では立たないだろうと思われるほど接近した距離で立つ。それだけで、観客は違和感を覚える。人間関係の距離の混乱を観客は感じることができる。

 また、机(卓球台)を囲む場面。人々は、机からほんの少し離れて座る。中央に置かれた、本当の食卓などと比べると、ほんの少し大きいその机が、家族の断絶を表わす道具として有効に機能する。おそらく演出段階で加えられた、こうした細かい表現が、芝居のテーマをくっきりとあぶり出す。

 コミュニケーション不全。関係のあり方が狂っており混乱しているのがまさに現代であり、それが現代の諸相(含異常な事件)を生むのだという宮沢章夫の主張は、至極まっとうだし、それは演劇のテーマとして追求することは、とても魅力的だと僕も思う。


 役者陣も、演出の意図をよく理解し、総じて的確で抑制された、まとまりのある演技を見せている。映像や、舞台美術、そして、スリットの奥で、舞台に背を向けて演じられるパートも、演出的な意図とよくなじみ、効果的だ。

 こうした意図は、ラストのカーテンコールまで徹底している。カーテンコールは、なんと役者は、観客に背をむけて(奥からカメラで撮影された映像がスクリーンに映ってはいるが)行われるのだ。礼をする役者もいるが、礼をしない役者が大部分である。これはもう意図的に、観客と舞台との間にも、コミュニケーションの欠落が作り出されている。「トーキョー/不在/ハムレット」は、「カーテンコールは拍手をするもの」という常識に支配されている我々にも、「欠落したもの/隠蔽されたものを見よ」と迫るのだ。

 これもまた、観る者の足元を揺さぶる秀れた仕掛けだろう。


 ユニークで独創的な表現が、非常に高い密度で詰まり、解釈できる余地が大いにある「トーキョー/不在/ハムレット」。もっと多くの場面や意図について言及できればと思うが、時間の関係もあり、ひとまず筆を置くことにする。

 触発されたものを、今度は観客が自分の表現として昇華していく番だ。僕もがんばらないとなあ、と思う。