レイ




 ソウル・ミュージックの巨人レイ・チャールズの伝記映画。ジェイミー・フォックス主演。テイラー・ハックフォード監督。アカデミー賞作品賞ノミネート。

 

家族を大切にする意志にブレがない


 アメリカ映画には、「キリスト教」はもちろん、「家族」に対する強い規範が見られる。「レイ」もレイに漏れない。

 レイは、ゴスペルをR&Bと融合させたりと、「キリスト教」に関する部分では、見方によればかなり背徳的だ(映画の中では彼を非難する人々もいた)。しかし、それでもレイがアメリカ人のヒーローたりうるのは、「家族」を大切にしようとする意志に、ブレがないからであろう。


 レイは、音楽的には天才である。しかし、家庭的に不遇で、盲目の上に黒人という何重ものハンディをかかえ、年少期の弟の死にトラウマを持っていると、この映画では描かれている。したがって、家族が最後の砦である、といった切実さは、実感が沸くし、家族を失いたくないというレイ・チャールズの姿勢は、僕から見てもまっとうであると思う。


 音楽的には、大胆で革新的だったレイも、信条的には、案外保守的だったということだろう。そうした部分を強調することで、レイ・チャールズアメリカ的ヒーローとして感情移入しやすい人物として描くことに成功していると思う。穿った見方をすれば、マーケティングでは、実はかなりしたたかなのではないか。



音楽的な圧倒的説得力


 この映画、レイの金に汚い部分や、友人や愛人を裏切る場面などを、結構赤裸々に描いている。扱い方によっては、レイを嫌な人間に見せるエピソードだろう。

 それでいて、レイの印象が悪くならないのは、前述の家族にこだわるレイの信条がきちんと描かれていることに加えて、MTVかとみまごうほど、本格的に挿入された音楽場面が、圧倒的な説得力を持って我々に迫ってくるからである。音楽は魂を浄化する。本物ソックリに演じるジェイミー・フォックス。その素晴らしさは筆致に尽くしがたい。気がつくと、僕は、眼前にレイ・チャールズ本人がいるのだと思ってスクリーンに見入ってしまっていた。

 ドラマも、伝記映画によくありがちな直線的なエピソードの羅列で、案外単純な構成を取っている。ラストも駆け足で、唐突な終わり方である。構成は案外平凡だ。しかし、それらが大きなマイナスに作用しないのも、音楽の持つ力のおかげだろう。


レイを支えた気丈な女たち


 また、常套的な手法であるとはいえ、幼年期のレイの記憶の断片をフラッシュバックで全編に挿入しているのも効果的である。ここで語られる母アレサこそ、レイの精神的なよりどころであり、そのきっぱりとした姿は、妻デラ・ビーと重なる。彼を支えたのは、気丈な女たちであったのだ。


 この映画の中盤以降は、音楽的な成功に対して、浮気をしたりヘロイン中毒になったり、家族との時間がとれずに悩むレイの人間的な姿が描かれる。家族や信仰を大切にする保守的な部分と、新しいものを取り入れ、伝統を打破していこうとする革新的で破滅的な部分が彼の中にあった。ヘロイン中毒になっても彼は「自分で自分をコントロールできる」と言ったが、実際は、母や妻によって支えられてきたのである。家族と個人主義。理性と狂気。古きアメリカと新しいアメリカ。伝統と革新。そうした部分こそが「レイ」の描いた大きな葛藤であり、テーマであったのではないか。


 1960年代、急速に移り変わる時代、アメリカもまた、古いものと新しいものの狭間で、大きく揺れていた。レイの生きざまは、アメリカ自身の社会のありように、大きく重なる部分がある。

 そういった意味でも、アメリカを体現している映画なのだろうと思う。


レイ@映画生活