草間彌生展「永遠の現在」(京都国立近代美術館)




草間彌生は笑わない


 はるばる遠出。草間彌生展「永遠の現在」(京都国立近代美術館)に行く。美術館にしては、かなりの人出。人気の高さに驚く。

 草間彌生は、笑わない。写真に映った彼女は、若い頃から、徹底して笑わない。一昔前の日本人は今ほど笑わなかったと別役実がエッセイに書いていたが、それにしても、である。かっと目を見開いて、顔の筋肉をつっぱった表情には、きっぱりとした意志が感じられる。


 笑うことは、コミュニケーションであり、自己表出である。一種の表現である。したがって、笑うことで安直に放電してしまうと、芸術に向けられるモチベーションやテンションがさがってしまう。いやそれは僕の勝手な妄想なのだが、そんなことを感じさせてくれる草間が魅力的だということだ。芸術家として。乱暴な言い方だが、草間彌生はストイックである。


言い知れぬ凄みを感じるワケ


 草間彌生といえば、水玉というかドットというか、あの独特のブツブツで有名である。印象的だったのは、小学生の頃の絵も展示されていたが、その絵もブツブツで覆われていたことだ。

 小さい頃から、世界を覆う網目や水玉に執着し、ひたすら描いて数十年。一生をかけて、ブツブツを描く、こうした芸術家の執念と妄執の深さに、僕は深く脱帽する。

 僕も、片手間に舞台を作ったり戯曲を書いたりする人だが、とても真似できない。関心はうつろいやすく、いつもおいしいところだけのつまみ食いだ。特に、戯曲を書くのは孤独な作業であり、自分の狂気と向かいあわなければならないので、とてもつらい作業だ。

 しかし、表現に対する執着が人より何倍も強く、いてもたってもいられなくて、制作に没頭し、表現を極限までつきつめていける人が芸術家と呼ばれるのだろう。そうした末の作品群。何というか、言い知れぬ「凄み」を感じさせられる。


KUSAMAの見たもの


 草間も語っていることだが、彼女は病気だった。ブツブツは、彼女が実際に幻視した風景だという。つまり、彼女の芸術的モチベーションは、純粋に内発的なもののように思える。そうした純粋性が、消費されない強靭さやナイーブさを作品に与えている。


 「草間彌生は、終始一貫して、みずからの心中に湧き上がるヴィジョンをもって、芸術と生活、あるいは芸術と社会の境界を乗り越え、小宇宙から大宇宙まで、すべてのものが逞しい生気で満たされた世界を快復しようとしてきました。その芸術は、社会や環境が徹底的に細分化され、制度化されてしまった現代にあって、けっして分割しえぬもの−愛や、生命や、宇宙といったものへと、私たちの目を開かせてくれるでしょう」(「主催者あいさつ」より)

 

 彼女の作品は、僕のナイーブさに火をつける。僕には、草間の見たブツブツは見えないが、せめて宇宙を覆いつくしているものを想像してみよう。草間の思いに自分の思いを寄り添えてみよう。彼女が見ようとしたものが、僕らにも見えてくるはずだ。そして、彼女が、かっと目を見開いているのは、愛や、生命や、宇宙を、決して見逃さぬように、けもののような鋭さで身構えているためだということを、実感できるに違いないと思うのだ。