[映画]「ミスティック・リバー」




 キネ旬ベストテン1位記念。 クリント・イーストウッド監督、ショーン・ペンケビン・ベーコンティム・ロビンス主演の、ミステリ風の装いのドラマ。イーストウッド監督らしい、重厚でみごたえのある作品である。


人間の根源を問う秀作


 「3人の幼なじみの少年たちが子供時代に体験した忌まわしい誘拐事件。それがすべての始まりだった。1人が車で連れ去られ、2人はそれを見つめるしかなかったその日、彼らの少年時代は終わりを告げた。25年後、大人になった3人は、悲惨な殺人事件を通して再び出会うことになる。1人は娘を殺された父親として、1人は刑事として、そしてもう1人は、容疑者として――(http://www.warnerbros.co.jp/mysticriver/intro.html)」


 25年の歳月に織り込まれた因果と運命。そして必然。人生の暗部に澱のように沈殿した陰の部分に、繊細かつ大胆にメスを入れた、骨太で誠実なドラマである。

 ミステリの装いを取りながら、実は謎解きに比重が置かれているわけではない。事件によって愛する者を失った悲しみや「喪失」を丁寧に描くことに主眼が置かれている。ラストも、決してハッピーエンドではなく、重厚で非ハリウッド的なのが印象的。


 ストレートな感動を与えてくれる作品ではないかもしれない。心地よい、口当たりのいい映画では決してない。しかし、多くの観客にとって、人生とは何か、生きる意味とは何か、そして自分の陰の部分を見つめ直すきっかけになりうる作品だ。わかりやすい感動や、刹那的な笑いを求める観客の多い昨今、こうした映画が地方都市でもロードショー公開されることは、とても有益なことだと思う。


 映画評論家の服部弘一郎は、HP「映画瓦版」のレヴュウで、「しばしば登場する十字架のモチーフは、この映画のテーマが「原罪」であることを象徴している」と述べている。「…この映画で描かれる原罪とは、この世のあらゆる人間が持つ弱さや不完全さのこと。……自分たちの卑小さを、臆病さを、そして愚かさを、三人はこの事件を通して骨の髄までたたき込まれてしまう。自分自身の姿を、ありのままに見せつけられたときに生じる心の負い目。この瞬間にイノセンスは失われるのだ。アダムとイブが、自分たちの裸体を恥ずかしがったのと同じように……(「映画瓦版」http://www.eiga-kawaraban.com/03/03120302.html)」


 僕は、人が死んだときの、どうしようもない「喪失感」や、それでもこなしていかなければならないやっかいな日常的な些事を思い出しながら、「どんよりとした気持ち」で「自分の感情と絶えず向かい合う」しんどさをかかえながら、この作品と向かいあっていた。

 どんなつらいことがあっても、自らが不完全であることや弱いことを思い知らされても、私たちは、それを引き受けながら、日常を生きていかなければならない。


 イーストウッドの演出は、奇をてらわない正統的なもので、演技もわかりやすいものである。サジ加減は、さすが娯楽性と芸術性を両立しようとするイーストウッドの面目躍如と言えるだろう。


補遺


この件について、かつて某所に書いたとき、某氏から後にメールをいただいた。以下引用多謝。


>『ミスティック・リバー』はシェイクスピアだったね。

ショーン・ペンマクベスだし、犯人はオセロ、

>過去の因縁が悲劇を生むのはタイタス・アンドロニカス。

>クライマックスのカットバックなんかは、

>まるでハムレットを思わせるようなものだった。

>重厚かつ丁寧。それでいて娯楽作。いやいや、凄い映画だった。

シェイクスピアだと思うと、アンハッピーエンドでもアメリカで受け入れられたのも

>当然という気になってくる。

>3人の男の中では、私はティム・ロビンスが一番印象的だった。

>鬱屈した純粋が狂気に蝕まれている様子が、歩き方や落ち着かない目線に

>よく表れていたと思う。


 指摘されて、あっと思った。観ていた時は全然気づいてなかった。確かに、非ハリウッド的な、アンハッピーエンドな結末を採用したことも、シェイクスピアの劇構造を援用しているとすれば、欧米人にも受け入れられるのも説明がつく。

 我々が考えるより、シェイクスピアの戯曲は、彼の国ではずっとポピュラーである。多くの映画作家が、シェイクスピア戯曲を援用して作品を創りあげてきた。ジェームズ・ボネット「クリエイティブ脚本術」(STealing Fire from the Gods,吉田俊太郎訳/フィルムアート社/2003)によると、世界の名作物語は、名作の中に秘められている普遍的で興味深く新しいパターンの発見の積み重ねによってできあがったものであり、私たちの中に存在している潜在意識を取り戻す一助となっているという。


 「・・・・現在の物語創作は・・・・ほんの一握りの例外を除いて、真のパワーがない理由がわかってくるだろう。いにしえの名作物語は完全に自然で直感的にできあがったものなので、それらが創作されたことについての厳密な意味や成り立ちを考える必要はなかった。名作物語の数々は有用で、また何度も語りたくなるようなものであり、そこさえきちんと押さえていれば十分で、物語の本質を知るということ自体、何の意味のない行為だったのだ。それが意味のある行為になったのは、物語というものが個人によって、文字を使って書かれるようになってからのことだろう・・・・」


 だからこそ、過去の名作物語の構造は、現代の作品によって援用されるのだろう。過去の名作物語の中には、創造的な潜在意識を触発する何かがふんだんに盛られているのだ。

 「ミスティック・リバー」もまた、我々の潜在意識を有効に働かせる触媒の役目を果たす。

 そしてそれは、すぐれた現代アートなどとも通じる部分であると、僕は思う。