キネマ旬報2月下旬決算特別号
キネマ旬報2月下旬号は、恒例のベストテン特集号。
ちなみに2004年度のベストテンは、以下の通り。
日本映画
1.誰も知らない
2.血と骨
3.下妻物語
4.父と暮らせば
5.隠し剣 鬼の爪
6.理由
9.チルソクの夏
10.透光の樹
外国映画
2.殺人の追憶
3.父、帰る
4.オアシス
6.オールド・ボーイ
8.シービスケット
9.春夏秋冬そして春
10.ビッグ・フィッシュ
日本映画ベスト1の「誰も知らない」は、僕の私的な2004年公開映画のベストワンであり(http://d.hatena.ne.jp/furuta2001/20050106)、あとの作品についても、(これはどうか)と思える作品も入ってはいるが、まあ大きな違和感もなく、このベストテンはベストテンで納得できる。
面白かったのは、毎年恒例の宮崎祐治氏の「映画街路図2004」。昨年公開の映画をイラストと一行コピーで紹介してあるページなのだが、イラストもさることながら、コピーが秀逸で、宮崎祐治氏の慧眼には毎年感心させられる。
コピーはイラストと一体になっているものであるが、失礼は承知のうえで、一行コピー、ほんの少しだけこの場に紹介させていただきたい。
■イーストウッドの森は暗く深い 「ミスティック・リバー」
■血は濃く、骨は太い ジョーは濃く、たけしは太い 「血と骨」
■チョー泣けると聞いただけで チョー萎える 「世界の中心で、愛を叫ぶ」
■バカも許される得な映画 「スウィングガールズ」
あとは本誌で御確認のほどを。
ベストテンは一方的な称賛、対するは皮肉のこめられたコピー。両者の関係は、実は補完しあって健全な批評精神を形づくっているのではないか。
映画雑誌と映画評
関連するが、話は少し変わる。
映画雑誌には、大きく分けてふたつの機能がある。ひとつは、映画を紹介する役割であり、もうひとつは、映画を解釈し批評する役割である。
大量消費社会が出現してから、「映画を紹介する役割」を担う映画雑誌がとみに増えた気がする。キネマ旬報のように、映画を解釈し批評する機能を強く持っている映画雑誌は、むしろ少数派だ。
解釈や批評を目指す雑誌は難しい。
映画の宣伝という意味では、映画をヨイショしないとならない場合もある。映画業界が沈滞してしまっては、映画雑誌も売れ行きも低迷するわけで、その意味では、業界と映画雑誌は一蓮托生だからだ。したがって、キネマ旬報でも、公開前は作品を無闇にケナすことはせず、紹介と軽い批評にとどめ、公開後に批評や解釈を誌面に盛りこんでいく、という手法を取る。ただし、かつてはもっと多くの批評が、「作品特集」に盛りこまれていた。
喜志哲雄という人が、(劇評について)次のようなことを述べている。
鋭い批評眼をもった演劇記者なら立派な劇評が書けるはずだが、私がこだわるのは、同じ記者が演劇についての取材をも担当している点である。ある芝居についての記者会見に出席して、制作者が用意した広報資料を受け取り、それに基づいて紹介記事を書く同じ人物が、その芝居を公平に批評することには無理があるのではないだろうか。取材を担当する記者にとっては常に豊富な情報を入手できるようにしておく必要がある。そのためには、情報源としての演劇人たちと友好的な関係を保っておかなければならないであろう。舞台を酷評しながら、こういう関係を維持しようとするのは、誰が考えてもおかしい。だから私は、取材と批評は別の人がやるべきだと思う。
(悲劇喜劇2005年2月号/喜志哲雄「劇評は誰が読むのか」)
喜志の文章は演劇について書かれたものだが、これは、映画業界についてもあてはまるのではないだろうか。
批評性の強い「映画秘宝」は、かつて20世紀フォックス映画から取材拒否を食らった。それは、業界の暗黙のルールを「映画秘宝」が踏み越えたからだ。批評と紹介の両立は、かくも難しい。
しかし、それでも映画雑誌には、映画を解釈し批評する役割を担っていてほしいと、強く望むものである。読者は、映画雑誌の批評性を求めているし、それが目利きの映画観客を作り、映画館に足を運ぶ観客を生むのである。
長い目で見れば、そうした姿勢こそが、映画界の興隆につながるのだ。