「アレキサンダー」補遺その2




アレキサンダー」についてまたまた書いてしまおう。

 

 「現代」2005年3月号、立花隆アレキサンダーの悲劇 アメリカの悲劇」を読んだ。丁寧な映画の読み方で、映画の解説としては納得するところ大であった。立花隆は、「アレキサンダー」を、大きく3つの観点から評価している。


 (1)史実に即して(「史実に忠実に」ではない)作られていること、(2)神話的構造を踏まえて重層的に物語が作られていること、(3)護衛官パウサニアスがなぜ父王を殺したのか等、細かい伏線が張られており、緻密に計算された「恐ろしいほどに情報量が多い」作品であること。

 こうした点にあたって異論はない。ただ、アレクサンドロスの悲劇をアメリカの悲劇と重ねてある点を、彼は否定しない。「アレキサンダー」は、古代に生きているはずの人々の精神や行動原理に現代人の価値観をあてはめて作ってある。結果、イデオロギッシュな作品にしあがっており、それが賛否の分かれる部分だろうと僕は思う。


感動しながらもかえって


 アレクサンドロスの東征にはアメリカの覇権主義が大きく重ねられている。「人類の融合? 調和? くだらん! 口ではそう言っていたが、結局彼がしたことは異民族の征服と支配だ。私は彼の夢を信じなかった。我々の誰一人・・・・・・これが彼の人生の真実だ」立花隆も引用しているプトレマイオスのこのセリフは、「彼」をブッシュと言い変えても何ら違和感なく成立するものだ。インドでのシークエンスは、非常に劇的に作られており、観客の心を鼓舞するがゆえに、僕は感動しながらもかえってうさん臭く感じてしまう。それは、古代に生きるアレクサンドロスの実像に感動しているのではなく、アメリカの悲劇に彼の悲劇を重ねていることにエキサイトしているに過ぎないからだ。単純な図式に批判精神もまた沸き上がってきてしまう。


 また、東征の原因を、父母の否定とコンプレックスに求めたこともどうか。心理分析的な思考は現代のものであり、そうした思考そのものがなかった2300年前のオリエントにおいて、「絵に書いたような」マザコン的思考により人が行動したかどうか怪しい。ソシュール的に言えば、言葉があるから思考の枠組みは生まれるのだ。とすれば母(ヘビを巻いたりしている!)との葛藤を精神分析的な視点で描くことは、図式的であり、また現代的脚色が過ぎているのではないのか。


エキサイティングであるがゆえに


 もちろん、「アレキサンダー」はフィクショナルな作品なので、そうした解釈自体が悪いわけではない。しかし、実像から離れ、現代的解釈を施してしまうと、対象へのアプローチはイデオロギッシュになり、アレクサンドロスの実像は見えなくなってしまう。天下の英雄も、作者の主張のための道具と化してしまうのだ。


 優れた歴史考証と聞いて、何本かの作品を思い出す。幕末の下級武士の生活をきちんと描き出した「たそがれ清兵衛」。武士や柔道家の本質をリアルに描いた「姿三四郎」や「七人の侍」(堀辺正史が武道家の立場から、「姿三四郎」や「七人の侍」の登場人物の精神や行動理念を説き明かした「命懸けの論理」は名著である(1))。こうした作品は、リアリティに重きをおき、過去のありように敬意を払い作られているので、観客にもまた考証的な発見があるのだ。


 「アレキサンダー」はエキサイティングである。戦いや葛藤は誇張され、映画的興奮に満ちている。しかし、だからこそ「待てよ」とも思う。アレクサンドロスを通じた、オリバー・ストーンアメリ覇権主義批判に乗り切れない観客は、釈然としないものを感じてしまう。この映画に対する批判が多いのは、そういう部分にも原因があるのだろう。

 (僕は決して「アレキサンダー」の考証が全部が全部デタラメだと言っていのではない。為念)


 (1)ターザン山本堀辺正史「命懸けの論理」ベースボール・マガジン社、1993)