さらに「ハウル」そして演劇




 2/23の続き。

 演劇におけるリアリティとは何か。そのことを改めて考えさせられたのもまた、美術手帖2005年3月号(美術出版社)のアニメーション特集だった。以下、木村覚「老体の城が動く、ということ」から引用である。


 ・・・・宮崎の画は「すみずみまで悦ばしい運動の航跡によって埋め尽くされている」(斎藤環「フレーム憑き」青土社、2004年)。斎藤環はこう語り、一般的なアニメと宮崎作品との最も大きな相違を運動への意識にみる。なるほど、「止め絵」を用いない、シーンの迫力を背景処理や効果音、極端なクローズアップで強調しない、主人公のモノローグを入れない、メタ世界(楽屋裏や「お約束」)を描かない」といった「禁欲」によって、近ごろの一般的なテレビアニメより宮崎の画は動いてみえる。そこには、彼のフル・アニメーションへの意志が反映されていよう。

 しかし、相当に慎重かつ大胆に動きを統制するある種の美学を持ち込まない限りは、フル・アニメーションの動きは決してリアルにも魅力的にもならない。実際、とくに近年の、実写に近づけようとする宮崎の試みを省みれば−−若いソフィーの堅い動作が端的に告げるように−−動きで観客を魅了するには至っていない。複雑な日常動作のひとつひとつをトレースすれば、画はむしろ魅力を欠き単調になる・・・・。

 ・・・・このことは、ディズニーアニメと比べるとき最も明瞭になる。例えば「バンビ」であれば、バンビのキュートに振るシッポや弾む歩行をはじめ、すべての動物いや森羅万象が動きの愛嬌、かわいさを湛えて、画は最初から最後まで躍動的であり続ける。あるいは、森にはぐれた白雪姫が歩くたびに、それぞれ自由にしかし彼女の一挙手一投足に瞬時に反応しながら、無数の小動物たちがさながら小川の流れのようにうねりつつ進む「白雪姫」の一シーンを想起してもいい。

 ・・・・おそらく、彼はあえてそれを回避しているのである。しばしば言及されるように、宮崎のなかにはディズニーやそれに多大な影響を受けた手塚治虫に対する反発がある。宮崎によれば、仮に悲劇的な物語を持ち込んでも、彼らは「意識的に終末の美を描いて、それで感動させよう」(宮崎駿「出発点1979〜1996」徳間書店、1999年)とする。そこに、世界を美化して深刻な問題を忘却させる魂胆を嗅ぎとる宮崎にとって、動きをなめらかにする選択こそ危険なのだ。・・・・そこに透けて見えるのは、世界を統制する美に抗う抵抗の姿勢である」


身体にこだわる「ハウル」は、とても演劇的だ


 「アニメーション」を、現実の「演技」に置き換えたとしても、この指摘は的を得た指摘になると思う。所作や発声を実際の行動に近づけただけでは、演技は魅力的にはならない。それなのになぜリアリティを目指すのか。それは、演劇もまた、この世界とどこかでつながっていなければ成立しえないからだ。

 演劇という表現形式を、できるだけシンプルに削ぎ落としていくと、最後まで残るのは、きらびやかな舞台美術でもなく、テキスト(台本)でもない。残るのは「役者の身体」である。身体性に手垢のついた方法論を持ちこめば、表現の本質が嘘になってしまう。安直に世界を美化したり統制したりすることは、身体性を背景に埋没させ、本質を見失わせてしまう大きな陥穽なのだ。

 宮崎駿の「フル・アニメーションへの意志」は、演劇における「リアリティへの意志」である。世界を写し取るための表現手段として演劇がある限り、こうした「リアリティへの意志」は、多かれ少なかれ演劇作品には通底しているものだ。そういった意味で「ハウルの動く城」は、とても演劇的だ。

 今回、宮崎が格闘した部分は、思想でも物語でもなく、身体性と強く結びついた部分であろう。老婆と魔法使いの階段のぼり競争や、老婆やソフィーのちょっとした仕草に、僕は強く魅かれてやまない。


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