美術手帖2005年3月号「動く絵画」



美術手帖 2005年 03月号

 いろいろと触発された。「ハウルの動く城」について、美術の視点をはじめとして、幅広い角度からの問題提起が興味深い。

 「美術史で読み解く「ハウルの動く城」」では、「ハウル」と美術作品との類似をあげ、アルチンボルト、エルンスト、フィッツジェラルドフェルメール、アルフレート・クビーンなどとの関連について言及している。五十嵐太郎は「カステロフィリアとしての宮崎駿」という文の中で、城砦愛好という観点から宮崎作品を考察する。菅野洋人「ジブリはデロリ?」では、(岸田劉生の造語であるところの)「デロリ」感が、宮崎作品に通底していると指摘する。木下長宏は「飛ぶということ」で、「銀河鉄道の夜」との類似性を指摘すれば、木村覚や野々村文宏は、老いと運動についての興味深い考察を提示する。

 さまざまな角度からの「ハウル」と宮崎駿論であり、ひとつひとつの論に、いちいち首肯する部分があるのだが、こうしたさまざまな言説が語られるのは、宮崎駿がビッグネームになったということもさることながら、宮崎駿が「物語を構築することを止めたため」であることは間違いない。物語を放棄したからこそ、我々はこの作品に触発されるようになったのだ。土屋誠一は言う。


 「(「ハウル」について)・・・・これら個性の希薄なキャラクターが繰り広げる小さな物語と、戦争という大きな物語は、互いに決定的な齟齬を来したまま進行し、物語の最後において、彼らの愛の成り行きが、この作品の世界を解決するきっかけになるという、半ば強引な調和がもたらされるわけであるが、その唐突な解決は、観客に対してにわかに納得しえない感覚を与えるだろう。「もののけ姫」を頂点として極度に展開された、物語の破綻をも辞さない重厚なテーマ設定と大風呂敷とも言える世界の構築は、ここでは微塵も存在しない。その意味では前作「千と千尋の神隠し」を引き継ぐものであると言えるかも知れないが、そこではまだ確認できたストーリーテリングの妙味によるカタルシスは、「ハウル」においては体験することができない。

 この物語の失効は、「もののけ姫」において、思想を語ることと物語を構築することとの和解に失敗したことによる帰結であろうか? そして、物語を語ることが不可能となったために、「運動」のようなモチーフといった、アニメというジャンルにおいて原理的な要素を洗練させることに、退却することを余儀なくされた帰結であろうか? これは恐らく正しい理解であろう。しかし、思想を語ることにおいて決定的に失われてしまったものは、極めて宮崎的な、「飛翔」というモチーフではなかったか?・・・・」(土屋誠一「なぜ飛ばなければならないか?/「ハウルの動く城」における物語の失効」より)


 物語や思想を語れば、登場人物の個性や存在感はおろそかになり、アニメが本来持っている「運動」の快楽は失われる。もっと言えば、既成の思想にからめとられて、かえって底の浅い、ありきたりの思想や物語ができあがってしまう危険性がある。物語の進行を理性でコントロールしようとすればするほど、図式的な予定調和の匂いのする「つくりものめいた」物語が生まれてしまう。物語や思想に拘泥した「もののけ姫」は、そうした傾向が強い作品であるように思う。

 「千と千尋の神隠し」には、それを克服しようとする意志が見られた。「ハウル」ではそれをもう一歩すすめ、積極的な意味で物語を放棄し、解釈を観客に大きく委ねるしかけを作ったのだと思う。だからこそ、「美術手帖」の特集のように、「ハウル」から多くの言説が生まれ得たのだ。今後も、いろいろな角度から、思ってもみないような作品論や作家論が生まれることを期待したい。