彫刻には 瞳がない



 ある美術館で、ギリシャ時代からヘレニズム時代の彫刻を数多く見た。オイラは美術には詳しくないので、美術のことをよく知る者にはとるに足らないことなのかも知れないが、その途中で気づいたことがある。
 ほとんどの彫刻の頭部には、瞳が彫られていないのだった。いわゆる白眼である。


 いや、すべての彫刻ではない。例外的に2、3の彫刻には、瞳が彫られているのだった。だが、それらの「瞳のある」彫刻は、力がなく、何となく間の抜けたようで、何だかとても安っぽく見えた。


 解説によれば、ギリシャ彫刻は元は眼が描いてあったそうだ。時間がたつことで色が消えてしまったとのこと。体も衣服も装飾も、彩色がほどこされていたのだそうだ。だがなぜ塗り直さなかったのだろう。その意味について、オイラはふと考えた。


 瞳を描けば、彫像と「その先にあるもの」との関係を、観るものに、より明瞭に理解させることができる。たとえば、彫像に驚きの表情が浮かんでいたとしても、白眼だけでは「なぜ(何を見て)驚いているのか」観る側は理解しづらい。しかし、瞳を描けば、彫像の状況や感情を、もっと明瞭に見る者に伝えることができるのだ。


 だが、瞳を持つ彫像は、ひどく安っぽい。それは、瞳を描くことによって、彫刻と周囲との関連が強調され、結果、彫像の本来持っている「力」や「存在感」が薄れ、彫像は「説明的」になったために、ひどく安っぽく見えたのだと言えはしないか。逆に言うと、時間が経ち、描かれていた瞳の塗料がはげ落ちていくことによって、ギリシャ彫刻は傑作になったのではないか。「時間」が彫刻に普遍性を与え、傑作に仕立てあげたのだ。


 演劇の中の人物もまた、すぐれた彫像と同じように作られるべきものだと考える。物語に奉仕する登場人物ではなく、役者の「存在感」が横溢している、彫塑的な人物造型。優れた彫像が、言葉を超え、本質的な人間存在に迫るのと同じように、演劇もまた、個別の身体を通して、普遍的な人間存在に対する問いかけを行い得る表現手段であるべきだ。しかし、我々は、無自覚のうちに、演劇において「瞳」を描いてしまっているのではないか。演劇において「瞳を描かない」ということは、どういうことだろう。


 といったことを考えながら、演劇に向かい合っている。


 関連エントリ
 ■[アート/デザイン]プラサット・ヒン・アルン
  http://d.hatena.ne.jp/furuta01/20121101

 (時間が作品に普遍性を与えるという意味では、ここも同じかも知れない)