「四国高演協だより2012」の原稿 その1


「 世界はギフトを待っている 」(上)


                 古田 彰信




 四国大会の最優秀校に対する講評は、印象批評に思え、正直オイラにはピンとこなかった。講評の中で「印象は〜」「印象に残ったのは〜」という言葉を重ねていたことに、審査員長はどこまで自覚的だったのだろうか(注1)。


 芝居が論理的な積み上げであるのと同じように、批評も論理的であるべきだ。城ノ内高の役者のどの部分を見て、生徒が「主体的に取り組んだ」と判断したのだろうか。他の学校の生徒も、わからないことに主体的に取り組んでいるのではないか? ことさら城ノ内高の生徒の「主体的」な姿勢を高く評価する審査員長の根拠が、オイラにはよくわからなかった。


 演劇には、さまざまな観点がある。審査員は、作り手がどんな演劇観や課題意識に基づき、どの程度の達成をなしとげているかを、多面的に見抜き、評価し、優劣をつける。「感覚」や「好み」で選ぶのなら誰でもできる。必要なのは、違った価値観に基づいた作品同士に優劣をつけるためのロジックである。それを示してほしかった。


 「わかりやすくしなくてもいい」「高度に観念的な芝居があってもいい」と審査員長が考えているだろうことは推測できた。だが、難しいものに取り組みさえすればすべて良いわけではないだろう。具体的な表現に即して、どんな点を評価するのか具体的に示してほしい。とくに今回は、観客のほとんどが「わからない」という感想を持つ城ノ内高の芝居を最優秀に挙げたのだから、なぜ最優秀なのかを明確に示してほしい。そうでないと「一見わかりやすく見えるが、実は誰もが通りすぎていたことに目を向け、かつ主体的に取り組んだ他校のメンバー」が浮かばれないとオイラは思う。




 順位を決めることだけが審査員の仕事ではない。講評の与える影響は大きい。審査員の一言がきっかけで、当事者ですら気がつかなかった作品の「意味」が明瞭になり、その作品がどんな作品だったのかが明らかになる。プロの適切な一言は、ブレイクスルーをうながすのである。


 オイラにも経験がある。大昔の話で恐縮だが、1990年、丸亀、顧問としてはじめて出場した四国大会のことを思い出す。審査員は篠崎光正氏。篠崎氏は審査にあたり「『演劇的』であるかどうかという基準で評価する」と述べ、オイラの書いた作品は「作られ方が文学的である。演劇的でない」と評された。入賞はしなかった。


 オイラは「演劇的とはどういうことだろう」と考えた。モヤモヤとしたまま、その後、別役実の作品に出会い、エッセイ「電信柱のある宇宙」を読み、その他多くの演劇人から影響を受けた。ずっとずっとひっかかってきた。その後の演劇を作るうえでのテーマとなった。




 演劇は「関係とその変化」を描く


 オイラが考える「演劇」とはこうだ。演劇は演劇でしか表現できない表現を追求するべきである。小説や映画の方がうまく伝えられることならば、小説や映画でやればいい。台本で作品が完結するならば、戯曲として発表すればそれでいい。


 考えてみれば、演劇は極めて不自由な表現形式である。映画や小説のように、何百万という人を相手にすることはできない。決められた時間に決められた場所に来たほんの少数の人々を相手に表現されるのみ。ヴィデオのように、早送りも巻き戻しもできない。映画のように、表情のアップもできない。


 それでも演劇でないと表現できないことがある。だからこそ存在意義がある。たとえば「いい天気だね」「そうですね」何でもないセリフを発するだけでも、そのニュアンスには無限にバリエーションがある。そうした細かいニュアンスを小説で描こうとしても「…と言った」などと、…の部分に、いたずらに多くの言葉を費やさねばならず、効率的ではない。映画やテレビドラマなら、そもそも何げない挨拶などは、不必要な情報として省略されることが多い。アップやカット割が入り、ストーリーが優先される。そのため連続した時間や空間の流れが寸断され、セリフの連続による関係の円滑な変化や、登場人物の佇まいや存在感が、立ち上がりにくくなる(もちろん例外はあるが)。


 演劇では、場面転換をしないかぎり、連続したセリフのやりとりが保持される。セリフを重ねていくことで、Aという関係がA´に変わっていくそのプロセスを、省略なしに写し取ることができる。それが演劇の利点である。言葉にならない「関係」とその変化を描くこと。そのことに、演劇は、もっとも効率的な芸術の形式である。そのことを「演劇的」と言うのだとオイラは思う。




 20数年前のあの講評があったから、オイラの演劇指導がある。オイラの演劇観は、オイラが考えたとも言えるし、同時に「審査員シノザキミツマサ」からのギフト(贈物)だったと考えることもできる。オイラは、審査員からのギフトに、自分なりの実践と経験から学んだ余禄をつけた。そして次に渡していく。もしそれを受け取る人がいれば、そして解釈してまた次に・・・・。そうした贈与のサイクルがうまく機能することで、高校演劇全体が豊かになっていく(注2)。


 考えてみれば、この冊子そのものが、ギフト(贈物)である。皆、一文の得にもならない文章を、延々と書き連ね、今年度は、百数十ページを超えるボリュームの大冊ができあがった。審査員の講評文だけでなく、顧問や高校生の意見や感想、批評など、さまざまな角度からのコトバが寄せられている。行政主導で作る冊子だと、こうはいかない。この冊子を読んで、四国の高校演劇をめぐる人間関係の中に退蔵されている演劇的資源は、思っていたよりも豊かにある、ということに、オイラは改めて目を見張った。


 拙稿だけでなく、これらのテキストが、誰かを触発し、次の実践につながり、ますます豊かな表現が生む起爆剤になるかも知れない。単に高校演劇を「勝ち負け」のみの対象と見なし、単に優劣を競う「競技」として扱うより、それぞれがコトバをギフトとして、演劇的知見をこめて贈りあう方が、はるかに豊かな営みになるのだとオイラは思う。 (続くhttp://d.hatena.ne.jp/furuta01/20130313へ)