「四国高演協だより2012」の原稿 その2




 プロは本番では、稽古通りにしない


 (つづき http://d.hatena.ne.jp/furuta01/20130314より)
 プロの方から触発されたエピソードを、もうひとつあげておく。最近の出来事である。


 昨年度の四国大会の折、審査員長の内藤裕敬氏に「プロの演劇と高校演劇、もっとも違う点は何だと思いますか」とオイラは質問した。その時の内藤氏の答えはこうである。


 「少なくとも、プロの役者の本番は、稽古通りにはしない」。


 目からウロコである。この一言は、オイラの芝居作りを根底から変えるきっかけになった。


 「本番は、稽古通りにはしない」そんなことは考えたこともなかった。「すぐれた芝居」を「作らせる」ためには、役者を型に入れ、決まりきった道筋を正確になぞらせる、極論すれば、それが稽古だと思っていた。


 だが、オイラが考える「すぐれた芝居」など、たかが知れている。そもそも自分の認識をはるかに超える投げかけを感じる作品に出会ったときに、衝撃を受けたり、感動したりするのである。衝撃を受けたり、感動したりしたいために芝居を作っているはずなのに、高校生を自分のイメージの枠に押しこめるようなやり方は、効率的とは言えないのではないか。


 演劇はライブだから、同じメンバーで同じ作品を上演しても、一回ごとに微妙に違う。「息づかい」がある。「ゆらぎ」がある。「いま−ここ」の瞬間のリアリティを無視して、段取りを優先させ、常に同じようにリアクションさせるとしたら、それは演劇の利点を減殺していたのだとオイラは今になって思う。


 四国大会には駒を進めることができなかったが、オイラの関わった本年度の城北高演劇部が目指したのは、より「リラックスした身体」を身にまとい、段取りを忘れて、無心で「いま−ここ」を感じながら舞台に立つ芝居である。即興の芝居が面白いのは、何が出てくるかわからないスリリングさがあるからだ。即興の芝居に近い、創り手の予測を越え、さらに観客の予想を越える、思ってもみなかったような表現が噴出するような芝居こそ、演劇の利点を生かす「演劇的」な営みだとオイラは考えたのである。




 高知工業高「アルバム」の奇跡


 オイラがそう考えるようになったのは、ある作品に、とても強く感銘を受けたからだった(四国大会上演作品でなくて失礼)。2012年5月、高知県高校演劇祭で見た、高知工業高「アルバム」(作/KAORU)である。この作品は、放課後の教室、友達同士で集まって、お菓子を食べながら喋ったり勉強したりする、だらしない高校生をスケッチしている。登場人物がが個性的に描き分けられており、バットを振り回す素行不良の生徒がいたり、人のいい女生徒がいたり、ちょっと勉強のできるヤツがいたり。ちょっとした恋愛のすれ違いがあったり、先生の乱入があったりはするが、大きな出来事は起こらない。だがその楽しい時間こそ、「いま−ここ」だけの、大切な瞬間のものであることに高校生たちは気づき、感無量になるという内容である。


 これがお世辞抜きで面白かったのである。もう心の底から笑わせてもらった。サプライズといったら失礼だろうか。前の年の高知工業の作品は、正直混乱した出来だった。前の年、審査員として参加していたオイラは、講評するのに本当に困ってしまった。誠実に意見を述べるべきだと思ったので「ごめんなさい。わからない」と彼らに言ったほどだった。


 2011年の講評文にはこう書いた。「役者は身体やセリフを意識化していない。それゆえに、セリフがかみ合わない面白さや、独特の存在感がある。そうした身体の特徴はうまく生かした方がいい。大人たちを描くのではなく、自分たちの高校生ライフを描いた方がよかったのではないか。それは君たちにしか描けないものとして、とても魅力的なものになる予感がする」


 高知工業の皆さんが講評文をどこまで参考にしたかは分からない。だが2012年の「アルバム」は、昨年の講評文で指摘したとおりの「身体の独特の存在感をうまく生かした」「自分たちの高校生ライフ」を描いた作品を作ってきた。台本は、だらだらと、くだらない会話を続ける人たちを描いて、話を前へ進めるでもない演劇的な状況を生み出していた。


 そして、何より特筆すべきは役者の状態である。リラックスした状態で舞台に立っている。うまく読んでやろうという力みや気負いがまったく感じられない。無欲であり、ただ目の前の相手のセリフにのみ集中して反応する「セリフのラリー」が成立していた。


 アドリブを重視した芝居つくりは、相手のセリフのニュアンスが変われば、受ける側のニュアンスも変わるのではと思わせた。身体感覚を演技にうまく乗せ、ノリがよく、役者はその場を楽しんでいた。それは、放課後のお喋りをかけがえのない楽しい時間として生き生きと楽しんでいる劇中の人々のありようと重なるものだった。


 演劇が、言葉にならない「関係」とその変化を描くことに、もっとも効率的な芸術の形式とするなら、「いま−ここ」の瞬間に、役者に生じた一回性の「ゆらぎ」を生かした演技の方が、ずっとリアルで多面的で魅力的な演技ができる。「アルバム」を見て、オイラは確信した。答えは役者のなかにある。狭い鋳型に入れるよりも、役者を縛っている、目に見えない諸々の思い込みから解放してやることの方が、演劇的達成を目指すにはむしろ効率的なのではないか。それが顧問であり教師の役割なのだとオイラは考えるようになった。
(続くhttp://d.hatena.ne.jp/furuta01/20130312へ)