「四国高演協だより2012」の原稿 その3




 演劇は世間のイメージを覆す


 (つづき http://d.hatena.ne.jp/furuta01/20130313より)
 そして、今回の四国大会。オイラにとって、特筆すべきギフト(贈物)は、大会初日、最初に上演された小松島高「補習授業は暑くて長い」(作/田上二郎)の中の、一場面だった。


 この作品は、夏休み、とある高校の地歴科準備室に集まる生徒と、若き世界史の臨時教師との交流を描いている。ちょうど8月15日、終戦記念日、世界史の補習の最中、黙祷をおこなう場面から芝居は始まる。黙祷の後、右翼的な考えを持つ生徒、白木が、若い臨時教師である青山につっかかる。


 「先生は、大東亜戦争で犠牲になった方々に対して、何を考えて黙祷をなさったのでしょうか?」
 この生徒は、中盤でもう一度登場する。いじめで自殺した生徒の地区の教育長が19歳の少年にハンマーで殴られたというニュースを世界史の臨時教師に示しつつ、「犯人の気持ちがオイラにはわかる。ゆるせないことに対して、こうやって行動することもできる、正直先を越されたと思った」と語るのである。


 この説明だけだと、右翼的な高校生は、アブナい狂信者に聞こえる。ネット右翼と言うレッテルには一般にはあまりいいイメージがない。世間のイメージに準拠して作れば、おそらく十中八九、「狂信的なネット右翼の高校生VS戸惑う女教師」といった構図になると思う。


 ところが実際の舞台は180度違った。白木を演じた臼木くんが、まっすぐ背筋を伸ばして気持ちをこめて語ると、切実な悩める魂の叫びのように聞こえたのだった。オイラは自然に彼に感情移入できた。共感できた。「オイラは、毎日、新聞やテレビを見るたび、はらわたが煮えくりかえる。どうして今の日本人は、こんなにも自分勝手で、無責任で、国家社会に対する自らの責任を果そうとしないのか」それを聞いて、思わずオイラは心の中でつぶやいた。「君の言うとおり。君が正しい」と。


 そこにあったのは、単なるネット右翼でもなければ、狂信者でもない。生真面目な生き方しかできない不器用で悩める等身大の高校生の姿だった。ステロタイプの造型で終わらず、人間の持つ多面的な部分のデティールを、くっきりと舞台に浮かび上がらせていた。それは、小説などがたくさんの文字を費やしても到底かなわない、演劇ならではの、役者の佇まいがグッと立ち上がる瞬間だった。


 どこまで自覚的にこの場面は造型されたのだろう。オイラは芝居を見ながら思った。最初から計算していたとしたらアッパレだと思うし、稽古の途中でそういう造型がしっくり合っていることを「発見」したのだとしたら、よい稽古ができていたということだろう。稽古の際の「ゆらぎ」は、「発見」のインスピレーションを得るきっかけになる。


 後に顧問の田上先生に聞いたところ、先生が台本を書いた瞬間から、この演技をイメージしていたとのことだった。演劇的な瞬間を立ち上げるのに必要な要素は、なんと周到に用意されていたのだ。必要な要素とは、台本と役者である。人生の分岐点に佇み、はるか遠くに思いを馳せる教師や生徒の姿を、奔放なストーリーやドラマティックな展開を避けながら、存在感を立ち上げるように周到に書いた台本と、白木を演じた臼木くんの中に満された「気持ち」だったのだと思う。


 まるでそれは水が満されてこぼれる瞬間の、中身のわからないコップのようだ。見ている者も、ときには作り手本人もまた、水がこぼれてはじめて、すでにコップが水で満されていたことを知るのである。




 終わりに


 以上、オイラ自身へのギフト(贈物)として忘れがたく、触発された経験を記してみた。最初はもう少し講評論を厳密に書こうと思ったが、時間がたつと、自分の中のこだわりも、だんだんほどけていく。初出はブログ「フルタルフ文化堂」(http://d.hatena.ne.jp/furuta01/)だが、考えたことを素直に書いていくと、コメントやメールで意見を下さる方々がいて、なるほどと感心しながら、演劇の見方には、いろいろな観点があることを改めて実感した。ゆえに四国大会で感じたことを、オイラの狭量なこだわりという枠に押し込めて総括することもあるまいと思うようになった。


 最後は、最優秀になった城ノ内高「3歳からのアポトーシス」について書こうと思う。こんなメールを「ある方」からいただいた。回りくどいオイラの文章より、よほど本質を突いていて、城ノ内高へのギフト(贈物)としてふさわしいのではないかと思い、ご本人の了承を得て、同時に城ノ内高へのエールと期待をこめて、ここに転載する。


 おやおや、いささか唐突なラストだなあと苦笑している読者の方の顔が目に浮かぶ。だが、贈与こそが演劇を豊かにするというのが、拙文の趣旨でもあるので、ゴールを決めることより、送られたパスを回すことに専念しつつ、あえてオイラのこだわりに結論を落としこまずに本論を終えたい。いやいや、本論の中でたっぷりとオイラのこだわりについては触れているのだが。


 最後に、城ノ内の今後に関しては、オイラもメール主の意見に全く共感するものであるということを、付記しておきたい。




 (転載開始)
 「城ノ内の課題は、全国大会に向けて大窪先生があのテキストを、視覚的なアイデアやトリッキーな仕掛けにとらわれずに、俳優の身体を通して何を演劇的なものとして成立させられるかということにあると思います。オイラは演出家の為すべき仕事とは、テキストを読み解き、テキストの辿る道筋に寄りそって、俳優の身体に責任を持つ作業だと思っています。視覚的な見掛けをどうするかという作業は、実は演出作業の中でほんの一部にしか過ぎない。でもそんなことは生徒にはなかなか難しく、顧問にしかできない(もちろん生徒にできる場合もあります)。大窪先生は作家としてではなく、きちんと演出家に徹しなければならない。それが全国に向けて問われていることだと思います。


 「(中略)大窪先生が手に入れた切符は意味のあるものであり、高校演劇の思い込みを革新するような作業を見せてもらいたいと期待しています。成功するにせよ失敗に終わるにせよ、これから半年余りの間に「よくわからない作品」であると括られてしまうのではなくて、「ああ人間とはなんとあわれな存在であることか」ということが伝わる作品にしてもらわないといけない。それが水沼さんのあの批評を覆すことであり、高校演劇の抱える課題に対して果敢に挑戦することだと思うのです(転載終わり)」(終わり)