演出家の仕事とは


 これを書いているのは2013年1月11日の早朝。日付をスキップせずにあえて2012年のところにブログを書いてきたのは、四国大会でひっかかり、オイラの時計が大会終了後で止まっていたためだ。審査と講評のあり方を批判した中で、「演劇的」という言葉を使ったので、オイラ自身の演劇観を示さないとフェアでないという思い込みがあって、2012年をひとつひとつ埋めていった。晴れて2013年1月1日。やっと「あけましておめでとう」である。


 時間がたつと、自分の中のこだわりも、だんだんほどけていく。ブログの他にも、メールで意見を下さる方もいて、なるほどと感心しながら、四国大会で感じたことを、オイラの狭量なこだわりという枠に押し込めて総括することもあるまいと思うようになった。


 当たり前のことだが、演劇に対するアプローチには、さまざまな道筋がある。だからこそ審査は難しい。大会審査員は、その作り手がどんな演劇観や課題意識にに基づき、どの程度の舞台の達成をなしとげているかを読み解いた上で、数本の作品に優劣をつけなければならないのだから。違った価値観に基づいた作品同士に優劣をつけるための評価軸やロジックも必要である。上演校の力量が試されているのと同様、審査側の力量もまた試されている。



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 このブログを贔屓にしていただいている城ノ内高の顧問である大窪俊之先生へ。いつもありがとうございます。お分かりだと思いますが、一連の記事は先生や城ノ内高のメンバーの成果を貶めるためのものではありません。もしお気を悪くなさった部分がありましたなら謝ります。ただテキストの中にヒントになるような片言隻句でも見出していただけたらと思い、拙文を書き綴った次第です。


 あと、今回の四国大会について、こんなメールを「ある方」からいただきました。回りくどいオイラの駄文より、よほど本質を突いていて、先生へのアドバイスとしてふさわしいのではないかと思い、ご本人の了承を得て、同時にエールと期待をこめて、ここに転載いたします。この件に関しては、オイラもメール主の意見に全く共感するものであります。


 (転載開始)
 「城ノ内の課題は、全国大会に向けて大窪先生があのテキストを、視覚的なアイデアやトリッキーな仕掛けにとらわれずに、俳優の身体を通して何を演劇的なものとして成立させられるかということにあると思います。僕は演出家の為すべき仕事とは、テキストを読み解き、テキストの辿る道筋に寄り沿って、俳優の身体に責任を持つ作業だと思っています。視覚的な見掛けをどうするかという作業は、実は演出作業の中でほんの一部にしか過ぎない。でもそんなことは生徒にはなかなか難しく、顧問にしかできない(もちろん生徒にできる場合もあります)。大窪先生は作家としてではなく、きちんと演出家に徹しなければならない。それが全国に向けて問われていることだと思います。


 「(中略)大窪先生が手に入れた切符は意味のあるものであり、高校演劇の思い込みを革新するような作業を見せてもらいたいと期待しています。成功するにせよ失敗に終わるにせよ、これから半年余りの間に「よくわからないだけの作品」で終わるのではなくて、「ああ人間とはなんとあわれな存在であることか」ということが伝わる作品にしてもらわないといけない。それが水沼さんのあの批評を覆すことであり、高校演劇の抱える課題に対して果敢に挑戦することだと思うのです(転載終わり)」