「演劇的」とは何か/その3 小松島高「補習授業は暑くて長い」


 今回の四国大会で、特筆すべき場面があった。大会初日、最初に上演された小松島高「補習授業は暑くて長い」の中である。


 この作品は、夏休み、とある高校の地歴科準備室に集まる生徒と、若き世界史の臨時教師との交流を描いている。ちょうど8月15日、終戦記念日、世界史の補習の最中、黙祷をおこなう場面から芝居は始まる。黙祷の後、右翼的な考えを持つ生徒、白木が、若い臨時教師である青山につっかかる。「先生は、大東亜戦争で犠牲になった方々に対して、何を考えて黙祷をなさったのでしょうか?」


 この生徒は、中盤でもう一度登場する。いじめで自殺した生徒の地区の教育長が19歳の少年にハンマーで殴られたというニュースを世界史の臨時教師に示しつつ、「犯人の気持ちが僕にはわかる。ゆるせないことに対して、こうやって行動することもできる、正直先を越されたと思った」と語るのである。


 この説明だけだと、右翼的な高校生は、アブナい狂信者に聞こえる。ネット右翼と言うレッテルには一般にはあまりいいイメージがない。作り手のイメージに準拠して作れば、おそらく十中八九、「狂信的なネット右翼の高校生VS戸惑う女教師」といった構図になると思う。


 ところが実際の舞台は180度違った。白木を演じた臼木くんが、まっすぐ背筋を伸ばして気持ちをこめて語ると、切実な悩める魂の叫びのように聞こえたのだった。オイラは自然に彼に感情移入できた。共感できた。「僕は、毎日、新聞やテレビを見るたび、はらわたが煮えくりかえる。どうして今の日本人は、こんなにも自分勝手で、無責任で、国家社会に対する自らの責任を果そうとしないのか」それを聞いて、思わずオイラは心の中でつぶやいた。「君の言うとおり。君が正しい」と。


 そこにあったのは、単なるネット右翼でもなければ、狂信者でもない。真面目な生き方しかできない不器用で悩める等身大の高校生の姿だった。ステロタイプの造型で終わらず、人間の持つ多面的な部分、デティールのくっきりとした豊かな人物像を、舞台に浮かび上がらせていた。それは、たくさんの文字を費やしてもかなわない瞬間だった。それがとても演劇的だと、オイラは感じたのだった。


 作り手はどこまで自覚的にこの場面を造型したのだろう。ひょっとしたら、この点に関しては無自覚だったのかもしれない。あるいは最初から計算していたとしたらアッパレだと思うし、稽古の途中でそういう造型がしっくり合っていることを「発見」したのだとしたら、よい稽古ができていたということだろう。前のエントリーでも触れたことだが、稽古の際の「ゆらぎ」は、「発見」のインスピレーションを得るきっかけになる。


 いや、どこまで自覚的であるかという点は、それほど重要ではないのかも知れない。たとえ無自覚だったとしても、演劇的な瞬間が立ち上がる必要条件が整っていたということだろう。それが人生の分岐点に佇み、はるか遠くに思いを馳せる教師や生徒の姿を、奔放なストーリーやドラマティックな展開を避けながら、存在感を立ち上げるように周到に書いた台本であり、白木を演じた臼木くんの中に満された「気持ち」だったのだと思う。


 まるでそれは水が満されてこぼれる瞬間の陶器のコップのようだ。見ている者も、ときには作り手もまた、水がこぼれてはじめて、コップが水で満されていたことを知るのである。