演劇部の稽古につきあう


 演劇に関わっていると、「呼吸する」「立つ」「話す」「見る」など、ふだん空気のように行なっている無意識のふるまいが、実は奥の深いものであることに気づく。


 勤務校の演劇部の稽古中にこんなことがあった。舞台の上には3人の役者がいて会話する場面。ひとりが、二人を相手に話をする。オイラは立ち稽古中に少し口を出した。「その言葉はふたりに掛けた方がいい」
 部員のAさんは、ひとりづつの顔を交互に見てセリフを出した。それがあまりに機械的だったので、思わず苦笑いした。
 「いやいや、それではダメ。全然二人にかかってない」
 きょとんとしている。どうもピンと来ていないようだ。オイラはAさんに言った。


 「「ふたりに掛けろ」と言われて、とりあえずあなたは二人を見るフリをした。それはあくまで「見るフリ」に過ぎない。気持ちが足りない。ほんとうに親しい者同士の会話には「あなたと話していると楽しい」「あなたとの関係をずっと良好に保っていたい」等々、「言外のメッセージ」が含まれている。そうした気持ちがないから、三人の関係がギクシャクして見える。


 「あなたの目は「泳いでいる」。まずは一人目の相手をちゃんと見ること、それがあなたが最初にやるべきこと。相手を大切に思う気持ちを保持して、あなたがきちんと見れば、相手も自然にあなたを見る。


 「次に、一人目の相手から目線を離してみよう。あなたの関心がどこに向かっているかが気になるから、相手はあなたの目線を追うはずだ。その状態であなたが二人目を見ると、相手も二人目を見る。すると三人の目線が合わさる。これで「三人で話している」状態ができあがる。


 「相手を見てから目線を離す、これは会話をコントロールする基本だ。観客を役者に感情移入させるのも、同じような原理である。向かい合っての会話の途中、観客の方に目線を振り出して、観客と目線を交差させれば、観客はその役者に感情移入する。その後、観客から目線を離して、相手役に戻すと、あら不思議、観客はあなたに感情移入して、あなたの視点から相手役を見るのである。


 とまあ、Aさんに対してそんな話をひとくさり述べる。「わかりました」とAさんは言う。だが言葉のうえでその理屈は分かっても、Aさんの身体はまったく理解していないことを、オイラは知っている。何度も何度も稽古しないと、その身体運用は身体化されないだろう。Aさんはフツーに不器用なのだ。


 フルタは何を得意げに書いているのだと思う人もいるかも知れない。相手の気持ちを自分の側に引き込むというのは、多くの人が日常で当たり前にやっていることである。少し器用な役者なら、何の苦もなくこなすだろう。だが、人がどんなふうに「三人で会話」するのか、真剣に考える機会など、芝居の稽古がなかったら、おそらく一生なかったはずだ。無意識に行なっている身体運用を言語化することは、日常を意識的・自覚的に生きるという姿勢の養成につながる。器用にこなす役者には、そもそもそんなプロセスは必要ない。これは不器用な者の特権であるとオイラは思う。