諏訪哲二「生徒たちには言えないこと−教師の矜持とは何か?」中公新書ラクレ


生徒たちには言えないこと - 教師の矜持とは何か? (中公新書ラクレ)

生徒たちには言えないこと - 教師の矜持とは何か? (中公新書ラクレ)


 第27回高知県高等学校演劇祭についての講評のアップに追われているが、本を読み映画を見て、相変わらず続く日常を「えっちらおっちら」生きていることには変わりがない。今日は、インターバルとして、同じ教師として示唆され触発されることの多い諏訪哲二氏の前作「生徒たちには言えないこと」に、オイラの矜持に重なる記述があったので、ぜひ紹介したくレビュウを書いてみる。


 (引用開始)
 最近、ある都立高校の教師から「近ごろ、デモシカ教師がいなくなったので、高校教師にセンスのある面白い人がいなくなった」とのコメントを聞いた。私はさもありなんと納得してしまった。私が在勤中につきあって議論したり、よく酒を飲んだりした教師たちのほとんどが私立大学出のデモシカ教師だった。昔(戦後前期)は幅のある感度のいい頭の優秀な人たちがよく高校教師に成った。


 私(諏訪哲二氏=※引用者注)はといえばいまは廃学となった東京教育大学の文学部を出ている。高校の教師に成ろうと思って入学したのである。その選択についてはフランスの社会学ブルデューの「下層階級の勉強が比較的できる子弟が学校教師に成るのは、まわりにそれ以外の知識階級がいないからである」にピタリと当てはまる。私は高校を定年退職して、教育大学院で教えることになり、ブルデューを若干読んだのだが、この部分で日本もフランスも同じだったのだという思いとともに、私が自ら高校教師を選んでいたと思い込んでいたが、これは階層(生まれや育ち)の宿命だったんだと妙に納得してしまった。たしかに、私の育った田舎の商業町では、知識階級といえば教師だけだった。思わず知らず、教師に憧れるようになったらしい。(59ページ)


 ・・・・・まともな教師の真意は「教師である私」の人生を必死に生きることである。生徒のために教師をやるのではない。〇〇のために△△するのは多かれ少なかれ心理的欺瞞が隠されている。私たちは、教師そのものを必死に生きることはできない。そんなことは理屈のうえで成立するだけのことである。「教師である私」を生きることによって、「教師である私」の思想と生を突きつめることによって、その結果として私たちは何がしかの教育的影響を子ども(生徒)に与えることができるのであろう(61ページ)。(引用おわり)


 話は飛ぶ。ここのところ、オイラの勤務校には、教育実習生が来ている。今年度の教育実習生は、よい意味でも悪い意味でも、あまり指導されてなく、線が細い。挨拶の声も小さかったり、すれ違うときの目線が泳いだりする。心から挨拶していない。まさに高校生と教師の中間といったところか。彼らは、教師になろうと決めている人もいるが、そうでない人もいる。


 彼らを見ていると、若かった頃を思い出す。オイラも「教師にデモ成ろうか」「教師にシカ成れない」といった「デモシカ教師」だった。「デモシカ教師」は世間的にはダメな教師の典型とみなされていて、オイラも「デモシカ」を肯定的にとらえたことはなかった。だが諏訪哲二は「デモシカ教師」を肯定的にとらえてみせる。もっと大きな枠組みで教師を見るように促される。目からウロコである。こういう広い視点があるのかと、新鮮な気持ちになるとともに、少し嬉しくなる。本書は、教師が偏狭な教師としての常識を脱ぎ捨てて、ラジカルに思考するためのちょっとした手助けになる。いろいろ触発される。本当はじっくり読みたい一冊である。