第27回高知県高等学校演劇祭 その8


上演9 土佐塾中高 加藤のりや作「鎖をひきちぎれ」


 死んでからもペットとして墓石に鎖でつながれている犬のポチと小鳥のピーコ、カメレオンのカメの3匹が、自由を求めて鎖をはずそうとする。
 役者のセリフは悪くない。ピーコの「カゴの中の様子を語るモノローグ」「死んでやったというモノローグ」といった長セリフも、気持ちがよく乗っていて、テンションが高く、何よりイメージがある。ポチの「冷静さ」もいいし、後で登場するカメレオンのカメも、とぼけた味が持ち味で、テンションがあがってもリラックスしているのがいい。長セリフが多い割に、3人とも平均以上に結構聞かせる。


 反対に、この演劇部の役者の課題は、多くの演劇と同じく「動き」である。とくに、ずっとつながれているはずの目に見えない鎖が、役者たちに見えていないことに、とても違和感を覚える。「鎖から逃れたいが逃れられない」というのは、本作の最大の葛藤のはずである。コミカルさが身上なので、ユルく作っているのだとしても、登場人物が鎖を意識しないのはとうてい理解できない。ずっと意識して、ことあるたびにひきちぎろうとするのではないか。動き回るんじゃないか。飢えた野生のエネルギーが3匹には横溢しているのではないか。


 彼らを拘束している墓石は、実際に舞台に登場させるのなら、もっともっと重く大きい方がいいと思う。土佐塾の舞台で使われたものは軽く、すぐ動くしお手軽な感じがした。自分が作るなら人間の何倍もありそうなものを作る。可能であれば、会館の柱に鎖をまきつけるなどして、ひっぱってもびくともしない重みを出せばいいかもしれない。
 また終盤、鎖がほどかれて自由になったあと、3匹の立ち位置が、つながれていた場所と変わらないのも、いったいどういうことだろうと思う。自由になったのだから、どこでも歩いていけばいいのに、役者は正面切って突っ立っていることが多く、全然自由じゃないように見える。


 現代の日本では、自由は一見当たり前のように存在しているように見える。だから自由に対しての渇仰は、それほど強くないかも知れない。舞台での表現に緊張感がないのも、そのせいかも知れない。だが見方によば、日本社会は全然自由じゃないとも言える。一方では対米従属が温存されているし、また一方では憲法改正を声高に唱える政治家もいる。教育の現場にも復古主義や「強制」がひたひたと迫っている。メディアは政府の都合の悪い記事は書かない。演劇部を選び、表現を志し、この作品を手がけることを選んだのなら、ぜひ今の社会に対する批判精神を持ってほしい。ひょっとしたら、我々は自由だと思わされているだけかもしれないのだ。


 18世紀の市民革命以降、人間は自由を渇仰し、命をかけて闘ってきた。そこには焦がれるような自由への思いがあった。作り手にはそれらを見通してほしかったとオイラは思う。それらのことを考えると、これは台本の問題だが、ラストの「愛されていた記憶があれば、それで十分」というセリフには、オイラはまったく納得がいかない。今まで鎖を引きちぎろうとしてきた前半は何だったのだろうか。