第38回四国地区高等学校演劇研究大会 雑感


 高校演劇の四国大会結果について、フルタの考えたことを少し。例年、全国大会へ行けるのは、前年に四国大会で最優秀になった「1校」のみ。だが、来年度は四国ブロックに増枠が回ってきて「2校」出場できる。今回はその2校を決定する大会でもあったのだが、このことが、審査に微妙に影響を与えたとオイラは思う。


 どういうことか。12月におこなわれた四国大会、最優秀校は、既報のとおり松山東高「夕暮れに子犬を拾う」。優秀(2位)は観音寺一高の「問題の無い私たち」だった。増枠の年なので、松山東高と観音寺一高の2校が、茨城で開催される夏の全国大会へ行くことが決まった。


 全国大会の代表となった松山東高と観音寺一高は、対照的な芝居である。松山東高「夕暮れに小犬を拾う」は、いじめを受けているクラスメイトを義憤にかられて守ろうとすることで、自壊していく高校生の仲良し女子グループを描く。高校演劇関係者なら知らない人はいない横川先生(曽我部マコト)と越智優さんがタッグを組んで作った芝居で、必要なコトバが、吟味された適切な場所に置かれ抑制された台本、それを舞台化するに十分に鍛えられた役者、加えて観客の心を揺さぶる回路を知悉した演出が組み合わさってできた、総合力の高い芝居だった。


 反面、二位になった観音寺一高は、高校生の未熟さや無配慮さを逆手に取った、高校生らしさを前面に出した芝居だった。いわゆる「演劇部もの」である。コンクールで審査員に酷評されたことをきっかけに、演劇部員たちが、自分たちはどんな芝居を上演したいのか考えていく。一見さわやかさが魅力の、素の高校生の姿が投影された体裁の作品だが、結構「したたかな」しかけも施されていて、「高校生らしく」熱っぽく説明的にテーマをヌケヌケと叫んでいるのを「高校生らしい」と類型的な枠に入れ不用意に見ていると、ラストの一言のセリフで、作り手の掌の中で踊らされていたことに気づかされ、ドキっとさせられる。いい意味で作り手の狡猾な仕掛けを味わされる作品だった。全国でも波紋を呼ぶだろう、大会後オイラはそう思ったものだった。


 2本の作品を前に、オイラは夢想する。例年のように全国大会への切符が一枚で、かつ審査員長の視点が違えば、最優秀校は観音寺一高になっていたかも知れない。観音寺一高のような芝居は、おそらくプロには作れない(オイラにも作れない)。対する松山東高の芝居はプロの仕事の延長線上にある。洗練されているのは松山東高の方。だがプロの演劇人の中には、新鮮に見える観音寺一高の芝居を高く評価する人も多いと思う。「こんな芝居は観たことがない」「この芝居を全国大会に紹介したい」という欲望に抗えず、観音寺一高を最優秀に推す人がいても不思議ではないだろう。


 「非プロ的」「高校生らしい」「類例を見ない」「新鮮」。考えてみれば、ここ十数年、横川先生と越智優さんの作品を抑えて全国へコマを進めた作品のほとんどが、そうした要素を持っていた。コラージュ的演劇の開拓者である紋田正博先生の2001年の阿南養護ひわさ分校「まじめにヤレ」と2005年の城西高「あすべすと」、生徒創作が魅力の2002年の丸亀「どよ雨びは晴れ」と2011年の土佐「化粧落し」、演出的趣向が高く評価された2003年の城東「幽霊部員はここにいる」と2007年の春野「駆け込み訴え」2012年の城ノ内「三歳からのアポトーシス」、荒々しい野趣な魅力の川田正明作品(高松工芸)2004年「HR−ホームルーム」2006年「寂寞のせせらぎ」2010年「Stick Out」。


 「うまさ」「洗練」「総合力」の観点から見ると、横川先生や越智優さんの芝居を上回ったがゆえに全国大会へ行った作品は、ないようにオイラは思う。つまり四国ブロックの他の学校は、全国大会へコマを進めるためには、多かれ少なかれ、意識的か無意識的かはともかく「非松山東高的な(非川之江高的な)」戦略を選択しないわけにはいかなかったのだ。横川先生や越智優さんの芝居は、十数年の間毎年のように四国大会に進出し、ほとんどが3位以内に入賞してきた。他の学校にとっては、とてもとても高い壁であり続けた。


 だが逆に言うと、これは松山東高にとってはハンディである。横川先生と越智優さんの芝居がすばらしいことは、皆が知っている。「うまくて当たり前」と思われているし、過去の作品と比べられたりすることもよくある。今回も、例年のように選ばれる学校が「1校」であれば、観音寺一高に評価が傾くということもあったかも知れない。これは川之江高や松山東高の生徒さんや横川先生、越智優くんにとっては苦しいところだったはずで、それでも水準の高い作品を十数年作り続け、たゆまず進歩し、他の学校にも大いなる影響を与えてきたというのは、稀有で偉大な達成と言えると思う。


 だから今回、2校が全国大会に出場できるという条件下で、松山東高が最優秀になったことで、オイラはホッとしたのだった。「うまさ」や「洗練」「総合力」は、他の要素と同様、正当に評価されるべきだとオイラは思うからだ。そういう要素が、ないがしろにされているとすれば、それは四国の高校演劇にとって不幸なことであるとオイラは思う。


 たとえば「洗練」ということについて具体的に言うと、松山東高は、セリフひとつひとつがきちんと観客席に聞こえる。そんなの当たり前というかも知れないが、四国大会へ出てくる演劇部でも、普通はセリフの何%かは観客席に届いていない。それが松山東高と他の演劇部との決定的な差だとオイラは思う。他校の演劇部が95%のところが、松山東高は100%できている。たった5パーセントだが、実はこの差は果てしなく大きい。いい芝居を作るためには、こういう細かなことひとつひとつを大切にしていかなければならないとオイラは思うのだ。


 「横川先生のところ(松山東)は越智優さんもいるから特別」なのではない。現に横川先生が異動した最初の年である昨年度の芝居では、松山東高の役者は、まだ発展途上だったではないか。いつも優れた役者を揃えている、ということは、あの水準の役者でも「育成できる」ということである。基本的な稽古をおろそかにせず積み上げたからこそ、あの水準の芝居がある。それは努力の賜物であることを忘れてはならないし、努力すれば到達できることを忘れてはならない。発声や本読みなど、オイラも基本的な稽古を疎かにせず精進したい。


 2校が代表で夏の全国大会へ行けるというのは、おさまりがいい。来年以降もずっと2校代表になればいいのに、と勝手なことを夢想するフルタであった。