城ノ内高/大窪俊之作「ボリバールの旗の下に」(第65回徳島県高等学校演劇研究大会)


 年末。四国大会を総括しようとパソコンに向かうと、なぜか徳島県大会のことを思い出した。「高校演劇の極北」城ノ内高の大窪俊之氏の名前は、2013年の全国大会で上演された「三歳からのアポトーシス」で全国的にも知られるようになった。哲学的で難解なセリフ、独特の美学に彩られた舞台美術など、他に類例を見ない作風は、長崎での全国大会の上演終了後の、観客席の比類なき「どよめき」につながった。ほとんど理解できないような韜晦な内容にもかかわらず、舞台に釘づけになってしまったことに、全国大会の多くの観客は不思議な感覚と魅力を感じたことだろう。


 さて大窪氏の今年の新作「ボリバールの旗の下に」。四国大会には出場はなかったので、本作は徳島県大会でしか上演されなかったいまや幻の作品だ。余談だが徳島県大会は、顧問創作が中心で、高校演劇の枠内では先鋭的な作品がずらりと並んだ。荒削りだがその野心の度合いにおいて、今年も目の離せない作品が目白押しの状態だったことを付記しておく。


 「ボリバールの旗の下に」は、今回も大窪作品ならではの奇想に満ちた作品である。舞台は大阪・通天閣近くの串カツ屋。ある夜、雷鳴とともに串カツ屋の主人に、ベネズエラ大統領だった故ウーゴ・チャベスの霊が憑依する。大阪に現れたチャベスとその協力者は、通天閣ビリケン像をビリケン型爆弾にすり替えて通天閣を爆破し、「二度づけ禁止同盟」による「チャベス自由革命」を遂行しようとするのだった。


 ホラ話ではない。なぜ通天閣を爆破するのか。通天閣は大阪の「意味のない」「無目的な」シンボル。だからこそ、本当の中心となりうると、チャベスは言う。これはロラン・バルトの思想の援用である。バルトはその著書「エッフェル塔」の中で、天皇制は「空虚な中心」であるからこそ機能してきたと述べた。つまり、通天閣天皇制=空虚なもの。本作の「通天閣」は、天皇制の隠喩に他ならない。「通天閣を爆破する」ということは「天皇制を破壊する」ということなのである。


 結局チャベス通天閣爆破は失敗に終わるのであるが、高校演劇の現場でこれほどアナーキーでラジカルなテキストが書かれているという事実にまず驚く。また、こうした抽象的で観念的なセリフが、身体性を排除され亡霊のようにあえて振舞う役者たちから紡ぎだされる様子も、ある意味新鮮に思えた。


 仕掛けはまだまだ続く。プロジェクターによって、LINEに倣ったレイアウトのテキストがホリゾントに無数に映し出される。空虚で無内容なコトバが、舞台上に奔流のように漂う。空虚な中心と、空虚なコトバ。それらはまるで現代の言語状況を象徴的・批評的に表現しているように見える。総理も「アンダーコントロール」と平気でウソをつく時代。数年前なら大問題になってしまうよう問題発言でさえ、消費するように扱いスルーしていく時代。そんななか、チャベスの革命とは、意味あるコトバをこの国に取り戻すことだとオイラは受け取った。


 高い志に加えて、人を食ったユーモア(たとえば「チャベス(キャベツ)のおかわり自由革命」)、凝った舞台美術など、見どころも多い。正直荒削りで未消化な部分もあるが、演劇という表現の枠を超えた、野心的で魅力的な内容ゆえ、一回の上演で終わらず、最終形態まで見てみたいという欲求を強く感じた一本だった。