四国大会講評文


ゆらぎの二日間

                    古田彰信


 難しい。四国大会の審査を担当しての感想を一言でいえば、それに尽きた。審査の意味を改めて考えさせられた。
 大会前はもっと安易に考えていた。なあに自分の基準にしたがって順位をつけるだけのこと、確かな演劇観さえあればブレることはない、そんなふうに思っていた。
 審査会では、三本を選び投票しなければならない。上演校はバラエティに富んでいて、うち何本かは高度な達成を果たしていた。テクニカルな面で刮目すべき上演があれば、作為を少なくして、高校生の佇まいを生かした上演があった。役者の存在感を強烈に感じさせる上演もあった。
 三本のうちの一本は、すぐに決まった。二本目もそれほど迷わなかった。問題は三本目だった。どの作品を置いてもしっくりこない。ひとつを選ぶということは、残りを捨てるということ。内容や形式にはそれぞれ違いがあり、観る角度によって長所に見えたり短所に見えたりする。それを審査員の固定的な基準で、一刀両断にしてしまっていいものだろうか、などと考えた。
 先に決まった二本の作品は、価値をストレートに「発見できた」。演劇の評価基準は、フィギュアスケートのようにあらかじめ決められているわけではない。作品のなかに多様な価値がこめられていて、価値を発見するのは観る側の作業となる。審査員は、ときに多くの観客の思いを代弁し、ときには創り手や観客が気づいていないことも見つけ指摘する。二本については、そういう作業が自分なりにうまくいった、ということである。
 残りの七本については、そうした「発見」がうまくいかなかった。正直モヤモヤを感じた。それは作品のせいなのか、それとも自分の力量不足のせいなのか。多分自分の力量不足のせいなのだろう。作品との相性もあるかもしれない。
 審査員は神ではない、当たり前のことをつくづく実感した。狭い認識の中で、作品から価値を見つけだそうとする、ちっぽけな一人に過ぎない。ただ自分にできることは、作品から受けたインスピレーションを信じて、作品に誠実に向かい合い、偏見を排して自分の中の解釈をもとに作品をつかもうとあがくこと、表現することである。迷いがあるからこそ、今回の講評文はあえて詳細に綴ってみた。以下9校の講評である。


■においたつような存在感
  /丸亀高「フートボールの時間」


 自分が選んだ一本目は、丸亀高「フートボールの時間」である。大正時代の丸亀高等女学校を舞台にして、女子サッカーに興じる女学生の姿を、ダンスやモノローグを交えながら描いた作品。単調なエピソードと説明セリフが並ぶ破調の作品と思いきや、いや破調であると見せかけて、舞台上には溌剌として自信にあふれる高校生が、鮮烈な躍動感や祝祭性とともに立ち上がっていて、その存在感には心底驚かされたのだった。何というか、においたつような華やかさや勢いが、突出しているという感じだった。
 この生き生きとした存在感はなぜ生まれるのだろう、魅せられながらそのことをずっと考えた。すぐに頭に浮かんだことは、女学校だった自校の歴史に想を得たことである。歴史とリンクしているがゆえに、時代的なリアリティが保証されるし、そして何よりも、自らのアイデンティティにつながっている。丸亀高演劇部員の皆さんは、「神話」の語り部としての正統性をすでに有していたということなのだと思う。
 もうひとつ、特筆すべきは、はなやかな着物と袴を役者がよく着こなしたことである。カラフルな和装は、ハレの雰囲気や祝祭性を醸し出し、観客の視線を引きつける。また和装は、「窮屈な慣習や旧制度」の象徴としても機能して、意味の面でも作品に深みをもたらしていると思う(実際の和装は窮屈とは限らないのだが)。
 事実の重みや衣装の力で、役者の存在感を安定させるからこそ、役者は思い切り役を遊び生きることができる。丸亀高の役者の魅力は、丸亀高の素の高校生の、前向きで役を楽しむ姿勢とも重なって見えた。日ごろの部活動の一瞬一瞬を、充実して懸命に生きている様子が伝わってくる、そうした仕掛けがとても演劇的で好ましく思えたのだった。

 
■現実と切り結ぶ意志とリアリティ
  /海部高「片道7キロ 40分」


 次に選んだのは、海部高「片道7キロ 40分」だった。徳島県南部の母校にやってきた教育実習生のおしゃべりを通じて、高校時代や将来の進路を思い、ふるさとや、生きる意味を考える作品である。
 海部高付近の地域人口は減り続けていて、地元に残る人はひとにぎり、ほとんどが京阪神などへ出ていってしまう、衰退へ向かう地域の切実さを、この作品は、なんと「過疎」という言葉を一言も使わないで表現して見せる。
 過疎という言葉を使っていたら、社会問題がテーマとしてもっと前に出てきただろう。創り手の狙いはおそらくそうではなくて、徳島の県南部に住む一個人のプライベートな実感や皮膚感覚こそを、とことん大切にして丁寧にすくいあげようとしているのだと受け取った。表現は個人が起点になるべきもの、マーケティングと商業主義が跋扈する今の社会において、この作品は表現の原点を改めて思い起こさせてくれた。
 五感で海を感じながら、将来の自分の無限の選択肢を前に、登場人物が途方に暮れて思わず立ちすくんでいる。繊細な畏れや戸惑いがセリフに滲みだして、登場人物の葛藤に複雑な色彩をもたらしている。自転車の場面、宍喰から海南までの片道7キロの通学路の映像が舞台に映し出され、リアルな現実と舞台で起こっていることが重なったとき、登場人物の葛藤が実感でき、正直自分は泣けた。
 表現が内容によくマッチしていたことも特筆したい。無作為に徹し、必要以上に声を張らないセリフさえ、「人間」というテーマを浮き彫りにするには効果的に見えた。ディスカッションをするけれど、駆け引きはしない、あっけらかんとした会話には、徳島県南部の人たちのことを知る人たちには、確かにこんな感じで喋るよなあという説得力があった。


 問題は三校目。印象に残ったのは、松山東高松桜井徳島市立の三校である。作品のまとまりでは松山東高松桜井が、創作ゆえのオリジナリティでは徳島市立が優れていると感じたが、三校の力は伯仲していると感じた。迷った挙句、審査会での投票の三校目は棄権ということにした。三校とも稽古がよく行き届き、テクニカル面でも高い達成を果たしていた。四国ブロックのレベルがあがっているがゆえに、いわゆる「ちゃんとした芝居を作る」演劇部を十分に評価しきれなかったのには、とくに隔靴掻痒の思いが残った。


■的確なセリフとリアクション
  /松山東高「くじらホテルはほぼ満室2017」


 「観客にどう伝えるか」という視点から評価すると、松山東高と高松桜井高に一日の長があった。松山東高「くじらホテルはほぼ満室2017」は、「くじらの見える丘のホテル」を舞台に、台風の日に起きる人間模様を描いた喜劇である。高度な連立方程式を解くような複雑な企みの台本。登場人物は、年齢的にも高校生からは遠く、喜劇的に誇張されていて、高校生にはなかなかハードルが高い設定。だが松山東高の皆さんは、舞台の上での出来事を、制御し統制し洗練させて観客に伝えていた。誰かが突出して存在感が高いという演劇部ではなく、すべての役者の集中力が高い印象で、チームワークがよく、皆が役に食らいついてよく走りつづけた。的確なセリフとリアクションの連続は、日ごろの稽古の積み重ねが垣間見えた。観客をひきつけてよく会場を沸かせていた。
 気になる点と言えば、やり取りとそれに伴う展開をかなり単純化していることである。くどいほどに繰り返される役者の出ハケ、誤解のたびに「えええーっ」と何度も叫ぶ誇張された反応。誤解が誤解を呼び、猫の目のように状況が変化するのがシチュエーション・コメディの面白さとはいえ、反応や展開がパターン化されすぎてしまうと、作り物であることが強調されてしまう。軽率で思慮に欠ける喜劇的登場人物として誇張された造型の向こうに、固有性に裏打ちされた個々の登場人物の深みや違いが垣間見えたら、さらに魅力的な舞台になったのではないか。また、舞台で起こる出来事が多すぎて、ラストの「人生では(舞台では)思ってもみないことが起きる。だから素晴らしい」というしみじみとしたメッセージまでもがあっさりとした印象に感じられてしまうのが惜しかった。
 越智さんの似た趣向の傑作「いるか旅館の夏」では、いたずら好きの子どもに大人が翻弄されるという、人が出ハケする必然性があった。「さよなら小宮くん」には、高校生が登場人物であり、切実な衝動から行動するという現実存在の安定感があった。本作にも登場人物の存在感をフォローする企みがあればなあと思った。


■演劇的な純度が高い
  /高松桜井高「日本の大人」


 高松桜井高「日本の大人」は、優等生の小学生が、大人になれない小学26年生、熊野さんと出会い,別れ、そして大人になっていくという作品である。これもよく稽古の蓄積が感じられる作品で、丁寧に作られ、細部までよく演出が行き届いていて、またどの役者もテンポ良く生き生きとして、舞台の上でよく弾んでいた。すらっとして手足の長い、おそらくオリジナル上演とは違うタイプの異形の小学26年生の造型が面白く、自分の中にもある幼児性を見せられている気がして、最後まで目を離すことができなかった。
 同一の役者が大人と子どもの両方を演じて、場面ごとにその間を目まぐるしく往来する。それを高校生という、実生活でも大人と子どもの中間にいる人たちが演じるのが、高校演劇の制約を逆手に取った戦略で、演劇的な純度の高さを感じた。抽象的な装置や見せ転換を採用したのも効果的で、装置などの機能と物語の内容がシンクロしており、より演劇的に見える、よい舞台だったと思う。
 ただこの作品、もともと親子向けに書かれている。演劇は、観客がいて初めて完成するもの。本作には、子どもの観客が必要なように思う。大人目線から見ると不可解な点が多い。
 たとえば、主人公の少年は、大人に対して嫌悪の言葉を語る。「わかったふりする」「くよくよ悩んでる」「周りを気にしてる」「見て見ぬふりをする」「ウソをつく」。なのに「ぼくは大人になる」と言うのである。なぜそう決断したのか説明はない。大人の目線で考えると、これは説明不足のようにも映る。
 だが子ども目線で見ると、解釈は180度変わる。アメリカの高名な心理学者によると、ほとんどの子どもは楽観主義者だそうだ。子どもにとって「大人になる」ことは、無条件にワクワクすること。大人になる意味なんて、はなから考える必要もない。だからこの台本のとおり「やっぱり大人になるよ」「そっか」で了解できる。
 この台本は、子どもに見せることを前提にバランスを取っている。リバランスされた高松桜井高の上演は、端正で美しく少々優等生にすぎる。もっと遊べていたら「王様は、はだかだ」という、現代に対する警鐘をも含んだ作品に昇華できたのではないかと思う。


■丁寧に芝居に向き合う
  /徳島市立高「夕暮れよりもまだ向こう」


 カラオケの一室を舞台に、多忙のため部に顔を見せなくなった顧問に思いを馳せる演劇部のメンバーを描き、生きることの意味を問うたのは、徳島市立高「夕暮れよりもまだ向こう」だった。
 脚本は、登場人物のもどかしくも傷つきやすい部分を、よくすくいとろうとした。もって回った方法で思いを伝えようという登場人物たちを設定したせいか、内容が複雑になり、説明が増え、あわせて「山月記」や「夜空ノムコウ」を重ね合わせるアクロバティックな内容になった。主人公が先生に対して強い思いを抱いている根本的な理由も今ひとつわかりにくい。だが、そもそも人は多面的で複雑で混沌としているもの。破綻はあるが、いたずらに内容を単純で分かりやすくせずに、何とかして複雑なこの世界を描きだそうとする志には敬意を表したい。
 この台本に対応するため、舞台美術をはじめ、キャスト・スタッフが総動員されて、作品世界が徹底的に精緻に作りこまれた。例えば、カラオケルームのドアを開けるたびに、通路からリアルな喧騒が伝わってきて、臨場感を高める驚異のしかけなどは、高校演劇の水準をはるかに越えて、とても感心した。また「どうしても縦の蝶々むすび」に続き、回想シーンはセットの転換をせずに舞台の一部に照明を当てて成立させる、観客の想像力に頼る大胆な挿入で、なかなかにエキサイティング、演技も含め、全体的に丁寧な芝居への向き合い方に好感が持てた。
 こうした積み重ねがラスト、多忙のために自分を見失っていく顧問教師の孤独を遠くから眺めながら、生きることの困難さと孤独を感じつつ、たどたどしく「夜空ノムコウ」を口ずさむ主人公の切なさをくっきりと浮かびあがらせた。
 ただ、それまでの展開では、特殊な設定のなか、思わせぶりの表現が多いこと、それにホールの響きと発声せいでセリフが聞き取りにくかったことなどの問題が加わって、観客が役者の発したセリフの内容を理解するのに時間がかかった。役者同士のセリフはかみ合っていて、登場人物が舞台上で相手のセリフを了解して、発語するまでの時間は結構早く、観客としては、置いていかれる感じがした。
 あと、装置や舞台美術を介してやろうとしていることが、台本の内容や演技のありようより、量も内容も存在感も先行し凌駕している感じがした。この芝居が少し説明的に感じられるのは、台本の書かれ方に加え、そうした内容と舞台美術のありようにも関係があるように思う。精緻に作られているゆえの、ちょっとした不整合な部分が気になった。


■予測不能な狂気の物語
  /高知南「遐福」


 高知南「遐福」は、誰も使わなくなった教室に集う女子生徒が、幸せを探す話、というだけでは、このドラマの特異性は伝わらないだろう。どこにでもいるような四人の女子生徒のところへ、自殺を図ろうとする女生徒が現れる。ああこれは、自殺未遂の少女の物語を軸に人間ドラマが展開するのだろうと思いきや、中盤以降、隠されていた残りの四人の女生徒の異様でグロテスクな言動がドラマの中心に座るという、予測不能の展開には驚かされた。
 嬉々として身体に「幸せ」をマジックで書き、ストーカーのようにお互いに執着し、そのうちの一人は、幸せを永遠のものにするために衝動的に自殺する。冒頭の自殺未遂の少女の話は、いつのまにか後景に退き、四人の女生徒の中に潜む、タナトスに彩られた観念的な狂気の物語が前景に立ちあらわれた。彼女たちの不可解な言動の背景など、ほとんど示されない、衝撃的で唐突、異様な内容は、一見の価値がある。粗削りではあるが、誰も観たことのないドラマを作ろうという心意気は高く買いたい。
 ただ、物語を読み解く手がかりがないと、観客は不安になる。ドラマは重層的に構築するべきだし、最小限でいいから、その物語を読み解くヒントを提示すると、観客は安心して解釈に没入できる。また、セリフが説明に終始する書かれ方で、互いの関係がすべて会話で説明されてしまうのは、演劇的に見て効果的とは言えない。演技は堅実に積まれている印象で、「受け」がきちんとしている点には好感が持てた。


■もっと「必死に」
  /東温「平成二十一年度北海道然別高等学校演劇部十勝支部演劇発表大会参加作品」


 東温「平成二十一年度北海道然別高等学校演劇部十勝支部演劇発表大会参加作品」は、上演直前のトラブル発生で幕を上げられなくなった然別演劇部のメンバーが、覚悟を決めて幕をあげるまでを描いた既成作品である。冒頭、緞帳があがると、然別高演劇部のメンバーが客席に土下座をして謝っている。四国大会に来た観客は、十勝の観客と重ね合わされ、当事者をハラハラしながら見守る役割が与えられる。舞台と観客の関係が緊張関係の中に置かれるメタフィクション的な趣向は、感情移入もしやすく、演劇的で面白いと思う。
 ところが後半、想像上の緞帳が下り、観客から見えていないという設定で話が展開しはじめると、観客は直接舞台とつながりのない、通常の傍観者のポジションに置かれることになる。この後退(とあえて言う)は、観客にとってはかなりの違和感である。この後半部にどう観客を引き込むかがこの芝居のポイントだと思う。
 緞帳を下ろし観客を待たしているのであるから、一分一秒が大切なはずだし、臨機応変に「ああしよう」「こうしよう」と試行錯誤しているときも、もっともっと必死のはずだと思う。幕が下りている後半こそ、待たしている観客をめいっぱい意識して、段取りを忘れて役に没入し、今この瞬間を必死で生きることが必要だと思う。すぐれた演劇は、段取りをなぞることから生まれるとは限らない。そもそも我々の現実の生は一回性のものだし、台本も段取りもない。修羅場でも上演をあきらめない人たちを描いたこの台本が言いたいことは、まさにそういうことではないのか。
 劇中の懸命な人たちと、必死で芝居に取り組む東温高演劇部の姿が重なったとき、東温高がこの北海道の作品を、自校の作品として上演する意味が浮かび上がるのだと自分は思う。


■オリジナルからどう離れるか
/土佐女子「月の道標(みちしるべ)−ユタとの約束−」


 沖縄戦に学徒動員された高等女学生の目を通して、悲惨な状態でも前向きに生きることの意義を問う土佐女子高「月の道標−ユタとの約束−」からは、この芝居を成立させる制約の厳しさを感じさせられた。
 台本は、二時間以上のオリジナルをテキストレジして六十分に圧縮したもの。全体としてバランスよくまとめているが、エピソードが直線状に並ぶ構成や、状況を語ることに費やされる説明調の台詞などは、「演劇」を立ち上げるには高いハードルになると思われた。
 ユタの語る主題「自分の足で前向きに生きることの大切さ」を浮き彫りにするためには、苦難としての戦争の悲惨さを観客に実感させることは不可欠である。だが、キャスト全員が女子であり、男性の役を女性がやっていることもあって、どこか上品さが漂い、戦争の極限状況や悲惨さのリアリティが薄れてしまったように思う。極限状態が前景化される場面として、劇中、足を切る場面があったが、ノコギリ音に頼って足を切ることを処理したこともあって、その場面だけが突出したな感じになった。ノコギリ音を印象づける周到で斬新な演出を考えるか、些細な戦場でのリアリティの積み重ねの上にドラマを構築する必要があったと思う。
 また、既成作品だからこそ、誰も見たことのないものを創ろうとする精神こそを自分は大事にしたい。たとえば装置にしても、作品のありようを決めてしまう大切な要素であるだけに、先行上演をなぞるだけでなく、土佐女子高のオリジナリティを追求してもらいたいと感じた。


■「ゆらぎ」こそ大切
新居浜南「また会えるかな?」


 新居浜南「また会えるかな?」は、取り壊される小学校の教室に集まった20歳の卒業生たちが、思い出話に花を咲かせるなか、思い出したくない出来事まで思い出して、人生の影の部分に思いを馳せるという作品である。本作に関しては、他の審査員の方々の多くが高く評価なさっているので、ここでは課題を一点だけ指摘するにとどめたいと思う。
 台本は、劇中の時間経過と実際の時間経過が一致する一幕物、いい意味で「どうでもいい」セリフがいい塩梅で書かれていて、主人公たちの成長はホンの少しという、演劇的な関係性を立ち上げるには適切な状況が設定されていた。
 問題は演技である。稽古をしっかりと積んだであろう役者のセリフは、自信が乗って「この言い方で言う」という点において揺らぎがなかった。このニュアンスでセリフが発せられることは「あらかじめ決定済みである」と言わんかのように聞こえた。だがそうした「揺らぎのなさ」は、いま、この瞬間を生きている実感を損なっていると思う。
 本番は、稽古通りにはやらないのがプロの役者だと、とある演出家が言った。面白い芝居には、何が出てくるかわからないスリリングさがある。創り手の予測を越え、さらに観客の予想を越える、思ってもみなかったような表現が噴出するような芝居こそ、より「演劇的」だとオイラは強く思う。
 演劇は不安定な芸術であり、上演のごとに微妙にその形を変える。セリフや段取りがどうあれ、そのときの相手のセリフが変化したなら、リアクションはいま発せられたセリフに対応して変化していく。そのためには、相手のセリフを一回一回「きちんと聞いて感じる」ことが大切なのは言うまでもない。


 以上、九本の上演作品について感想を書いてきた。表現すると言うことは、自分自身と向かい合うということである。批評も表現である。創り手の直観がとらえた生の直接的な手ごたえをさぐりながら、自分自身のありようを探っているのだということを今回強く実感した。
 最後になったが、審査員という貴重な機会を与えてくださり、拙文を発表する機会をいただけたこと、九本もの触発される作品を観る機会をいただけたことを、強く強く感謝したい。ありがとうございました。