徳島県高等学校文化連盟機関誌「高文連」2015年度版より


 年度末。今年度の県内文化部の活動をまとめた2015年度版の「高文連」(34号)が、オイラのもとに届く。演劇部門の専門部長である吉田道雄先生が、今年度の県内の高校演劇を踏まえて寄稿なさっている。城北高の「Love&Peace」についても触れられているので、吉田先生の許可を得て、ここに転載する。作品を「読んで」いただける人に恵まれていることをオイラはつくづく実感した。



■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■


 親切である機会
            演劇専門部長 吉田道雄


 「堅固なものを打ち負かそうとするものは、親切である機会を見逃してはならない」(W・ベンヤミン)この言葉の意味を噛み締めた1年であった。これは道家の祖・老子が、亡命途中に一人の税関吏の友情にも似た親切によって「道徳経」を成立させた経緯を詠ったブレヒトの詩をふまえ、評論家のベンヤミンが記した言葉である。高校演劇でも事情は同じだ。痩せ衰えた既成観念を打ち砕き、心底からの熱や力、多様性や豊かさを勝ち得るためには、そこに集う人たちの「友情」や「親切」が必要なのだ。そういう意味で徳島は恵まれている。そこには何と多くの「親切」が満ち溢れていることか。


 まず阿波が昨年に引き続き県大会最優秀賞・浅香寿穂(創作脚本)賞・舞台美術賞の3冠を達成し、四国大会でも最優秀賞(文部科学大臣奨励賞)を受賞、夏の全国大会(広島)への切符を手に入れた。また県大会2位の城北高も優秀賞(四国3位)で、春の全国大会(北海道)への出場を決めた。四国2校の同時入賞、春・夏全国同時出場は、2012年の城ノ内・羽ノ浦以来3年ぶりの快挙である。勿論ことは上演校の努力の賜物だが、同時に徳島県全体の長年に渡る地道な取り組みが実を結んだとも思える。今大会審査員長の山内一昭氏は、徳島の創作の充実を質・量ともに高く評価して下さったが、その根底にはやはり劇作研究会や戯曲コンクールを中心とした長年の実践が厚く存在し、我々は陰に陽にその「親切」に支えられているのだ。


 たとえば阿波の「2016」は、現在、1986年、そして架空の2016年という、3つの高校生像が交差する中で「一体この30年に我々は何をなし得たのか」を問う作品だが、私にはそれが2009年度本欄に元事務局長・田上二郎が問いかけた「徳島のドラマ」の具現化に思えた。古典的なドラマが失効した現代のドラマとは何か? 私は「2016」に、この問いへの現状での最良の解答を見るのである。つまり「2016」は既成のドラマを構築しながら、「時間の流れ(の相対性)や「噂話」という仕掛けを通して、現代への痛切な批評をそこに同時に受肉化した作品である。作者が考え抜き、部員がそれに応え、作品はいよいよ本来の居場所である2016年を迎えた。あえて言おう。これからが本当の始まりである。もう一度、奇跡は起きる。


 城北は幕開きに心底打ちのめされた。簡素なセット、たったふたりの人物、だがすべてが明晰に位置づけられ、予感と緊張の中に佇む。劇の進行につれ何でもないセットや小道具は、一つ一つ意味を持って結わえられ、一つの織物を成す。役者の対話ラリーも含めたそのメカニカルな進行の非情美。無駄なものは一つもなく劇は「論理的」に進行する。紋田正博先生はかつて「幕開きの一瞬を見ればどんな劇か大体分かる」と語ったが、その範例がここにある。だが作者は実はその硬質な殻を壊したかったのではないか(それが“Love&Peace”の含意か)。とはいえ我々はまず硬質な殻の美を真っ先に学ぶべきだ。机・椅子と少人数でこれほど美しい舞台ができる。だから考え抜くことだ。殻を手にして初めてその殻を出る自由を得る。


 今年は生徒創作の割合が増えた。いいことだ。今後ももっと活発にして欲しい。そのために劇作研がある。また、今年は特に3年生の活躍が目立ったように思う。最上級生が身を以て示した演劇への情熱をぜひ各校で受け継いで行ってほしい。


 市立・羽ノ浦の全国級のセット・演技、城南・富西の躍動、海部の軽快等、語りたいことは山ほどあるが紙数だ。全ての学校の舞台に果敢な挑戦や努力があった。これからもそれを感じ続けたい。そのための課題は各校の舞台よりむしろ事務局の運営にあった。事務局3年目の油断で多くの方に迷惑をかけ、ある学校には大変失礼なことをしてしまった。いかに高尚なことを言っていても足元を疎かにすれば何もならない。正に「親切である機会を見逃してはならない」のである。襟を正して今後の運営に当たりたい。