「演劇的」とは何か


 前にもこのブログで書いたことに重なるが、ご容赦願いたい。


 顧問の演劇観は、講評によって培われる。少なくともオイラの場合がそうだった。大昔の話で恐縮だが、1990年、丸亀で開催された四国大会。はじめて出場した四国大会である。審査員は篠崎光正。彼は審査にあたり「『演劇的』であるかどうかという基準で評価する」と言った。そして、自分の関わった作品は「作られ方が文学的である。演劇的でない」と評された。入賞はしなかった。


 オイラは「演劇的とはどういうことだろう」と考えた。当時は、篠崎光正の言った「演劇的」の意味がよく分からなかったのだ。モヤモヤとしたまま、その後、別役実の作品に出会い、エッセイ「電信柱のある宇宙」を読み、その他多くの演劇人から影響を受け、その過程で、篠崎の言った「演劇的」の意味が、なんとなく見えてきた。それがオイラの演劇における価値の軸となった。


 それはオイラの言葉で言うとこうだ。演劇は演劇でしか表現できない表現を追求するべきである。小説や映画の方がうまく伝えられることならば、小説や映画でやればいい。台本で作品が完結するならば、台本を配ればそれでいい。


 考えてみれば、演劇は極めて不自由な表現形式である。映画や小説のように、何百万という人を相手にすることはできない。決められた時間に決められた場所に来たほんの少数の人々を相手に表現されるのみ。ヴィデオのように。早送りも巻き戻しもできない。映画のように、アップもできない。


 それでも演劇でないと表現できない表現がある。だからこそ存在意義がある。たとえば「いい天気だね」「そうですね」何でもないセリフを発するだけでも、そのニュアンスには無限にバリエーションがある。そうした細かいニュアンスを小説で描こうとしても「…と言った」などと、…の部分に、いたずらに多くの言葉を費やさねばならず、効率的ではない。映画やテレビドラマなら、そもそも何げない挨拶などは、不必要な情報として省略される傾向が強い。アップやカット割が入り、ストーリーが優先される結果、連続した時間や空間の流れが寸断され、セリフの連続による関係の円滑な変化や、登場人物の佇まいや存在感が、立ち上がりにくいのが映像である(例外はあるが)。


 この点演劇では、プロセミアムの中に連続したセリフのやりとりが保持される。役者がセリフを発し重ねていくことで、Aという関係がA´に変わっていく、そのプロセスを省略なしに写し取ることができる。それが演劇の利点である。つまり、演劇とは、言葉にならない「関係」とその変化を描くことに、もっとも効率的な芸術の形式であると、オイラは考える。


 また演劇は、観客の想像力をテコにした芸術である。たとえば舞台上に本はなくても、役者が本を読むフリをすれば、観客は「本を読んでいるのだな」と理解する。たとえ舞台の上に何もなくても、ゴージャスなパーティーを現出させることができる。つまり、演劇は舞台の上のみで完結しているものではなく、観客の視線をまじわらせることで、初めて成立すると言えるものである。(つづく)