「幕が上がる」


 上は言葉を選びながら書いたtwitter。高校演劇に関わったことのある、オイラとSNSを通じてつながっている人たちとなら、共通の感興を共有できるに違いない、そんな気がして、この映画を観ることをよびかけた。本格的に高校演劇を題材にしたはじめての商業映画。これは個人的にも特別な映画に違いない、そんな思い込みが確かにオイラの中にあった。一種の宗教にも似た気分を持ってオイラは映画館に駆けつけた。


 だが、オイラは少し出遅れたようだ。3月7日までは、勤務校の演劇部OBのひとり芝居に傾注していたので、ハレの場である四国学院大学が用意してくれた高校演劇関係者への試写も見に行かず、2月28日の初日には間に合わず、結局劇場に足を運んだのは、公開2週目のウイークデイの夕方。ガラガラの劇場に観客は二人。すでに世間の熱はさめたのか、冷や水を浴びせられた気分で、本作を見た。


 映画の最大の見どころは、高校生を演じたももいろクローバーZの面々の演技と存在感であるとオイラは思う。それは「もしドラ」のAKB48の人たちと比べれば一目瞭然だ。とても自然に演劇部員がスクリーンの中に息づいている。結構な長回しの中、繊細な気持ちのキャッチボールをかわしている。まああえて言うなら「肖像画」の公演場面、それぞれ1カットでメンバーの演技を見せるとかして「役者」としてのモモクロを描けば、彼女たちの演技は役柄とさらに一体化したとオイラは思うが、タイトなスケジュールの中、限られた時間でいっぱしの役者のたたずまいを彼女たちが身に付けたことを、オイラは素直に称賛したいと思う。


 だが、そうした日常的な描写の自然さは、映画的な面白さとは、決定的に違ったベクトルにあるのじゃないかとオイラは思うのだ。ちょうど同時期に矢口史靖の「Wood Job! 神去なあなあ日常」を見たこともあって、その意を強くした。「Wood Job!」は、前半こそ「林業体験を通じて成長する都会の若者」という、現実に軸足を置いた描写が続く。この時点では、誇張は「幕が上がる」よりも明瞭だが、決定的な差ではない。しかし、ラスト近く、ふんどし姿の主人公が男根を象徴した御神木にまたがり、女性の陰部を彷彿とさせる崖下のモニュメントまですべりおりる村の奇祭が描かれるに至って、映画は様相をがらりと変え、ホラ話的なカタストロフィが炸裂し、観客は高揚感にぐっと包まれる。こうした仕掛けこそが「映画的」だとオイラは実感したのだった。


 「幕が上がる」には、そうした「映画的な描写」は、ほとんど見られない。すぐれて日常的・現実的で緻密である。クラシカルな映画を観ているかのような装い。端正さ。それはある意味とても「演劇的」なものだ。


 「演劇的」な面白さと「映画的」な面白さの質は違う。舞台の上で起こっていることなら、観客はしょせん嘘だと思って見ているから、舞台上で日常的で些細なリアルが再現されたら、それはそれで見せ場になるし、スリリングに見える。だが、映画のカメラは、何度も撮り直しがきくし,いまはCGなどが発達しているから、日常的で些細なリアルが再現されていることはむしろ当たり前で、見せ場にならない。逆に映画は、特別で突出した、現実から大きく遊離したものを描くときに、その威力を発揮する。映画と演劇は、表現のありようが大きく違うと思うのだ。


 「幕が上がる」は、端正さが先に立ち、映画ゆえの面白さ(猥雑さ)が薄い気がするのはオイラだけだろうか。清水ミチコムロツヨシのコミカルな演技や、デフォルメされたさおりの「夢」の場面も、夾雑物に見えてしまう。ときどきスクリーンに映し出される富士山の端正さが、まるでこの映画を象徴しているかのようだ。もっとも、「普通の高校生」はそこまで雄大ではないが。