第37回四国地区高等学校演劇研究大会「三歳からのアポトーシス」講評に対して


 前日のエントリで採録した水沼健氏の四国大会の最優秀校に対する講評は、印象批評に思え、正直オイラにはピンとこなかった。講評の中で「印象は〜」「印象に残ったのは〜」という言葉を重ねていたことに、彼はどこまで自覚的だったのだろう? 


 芝居が論理的な積み上げであるのと同じように、批評も論理的であるべきだ。たとえば、城ノ内高の役者のどの部分を見て、生徒が「主体的に取り組んだ」と判断したのか? 他の学校の生徒も、わからないことに主体的に取り組んでいるのではないか? ことさら城ノ内高の生徒の「主体的」な姿勢を高く評価する審査員長の根拠が、オイラにはよくわからなかった。


 「わかりやすくしなくてもいい」「高度に観念的な芝居があってもいい」と水沼氏が考えているだろうことは推測できた。だが、難しいものに取り組みさえすればすべて良いわけではないだろう。役者が舞台から差し出した表現の中で、どんな点を評価するのか具体的に示してほしい。そうでないと「一見わかりやすく見えるが、実は誰もが通りすぎていたことに目を向け、かつ主体的に取り組んだ他校のメンバー」が浮かばれないとオイラは思う。


 城ノ内高の役者に対するオイラの感想はこうである。それらしく型に入れられてはいる。だが特別な訓練や意識をしていない平均的な高校1年生のそれで、観念的な内容を支えイメージを喚起する言葉を紡ぐには、言葉や振る舞いに対する鋭敏さが足りないように思われた。


 また、ひとつひとつの演出的手法についても、どこまで吟味して提示しているのかがはっきりしないように思う。「子供のクツ」「ラストの薔薇」「時計」「かん高い朗読の声」「猩々の歌う沖縄方言の歌」・・・・・。足し算のように持ち込まれたその他無数の投げかけが、テーマとつながる的確なイメージを喚起しえていないゆえに、この芝居はことさらにわかりにくなっているのではないか。むしろ引き算的に、必要とされる表現を吟味して構成した方が「演劇的」な作品になりえたのではないか?


 ともかく、審査員は前もって台本を読み、演劇的素養も高い。いわば特権的立場にある観客である。観客のほとんどが「わからない」という感想を持つこの芝居を最優秀に挙げるのだから、なぜ最優秀なのかを明確に示す義務がある。良い点も悪い点も含めて、創り手が思ってもみなかった鋭い解釈を示されることで、創り手ですら気がつかなかったその芝居の「意味」が見えてくる。そのプロセスを経て全国大会に行く芝居は豊饒になる。ひいてはそれが四国ブロック全体の豊饒につながる。それが審査員の存在意義だとオイラは思うが、どうか?


 水沼健氏の講評(採録)はコチラ
  http://d.hatena.ne.jp/furuta01/20121227