舞台はコワイ

 2009年夏、オイラが顧問を務める演劇部の夏公演時、パンフレットに書いた「口上」。観客に対してというよりは、高校生の部員に対して書いた文章。


2009城北高演劇部夏公演「いるか旅館の夏」口上
         投稿日:2009年 9月 3日(木)


舞台はコワイ


 舞台はあなどれない。そこは、ウソをつこうと思えば思うほど、見透かされてしまう場所である。
 昔のことだが、ご飯を食べる場面で「いただきます」のセリフ一言を、どうしても言えない生徒がいた。僕はその生徒に聞いた。「普段の生活で、いただきますって言ってるか」「言ってません」。
 身体は正直だ。ふだん使っていない言葉は、たとえ「いただきます」の一言ですら、舞台で言えなかったりする。ときにそれが、白日の下にさらされる。つくづく役者は大変だと思う。


 よく、役になりきる、などと言われるが、厳密な意味で「なりきる」ことなどできるのか。不可能だと思う。「なりきる」ということは、自分を消すことである。たとえ憑かれたように演じる役者がいて、我を忘れて演技をしたところで、身体はウソをつけない。役のために扮装しても、たとえ10キロ減量したとしても、身体は役者自身である。自身の身体を別人の身体に変えることは、タヌキやキツネでない限り、不可能だ。


 むしろ、すぐれた役者は、自分の魅力的な部分に役柄をひきつける。魅力的な声を持つ役者は、魅力的な声が際立つように演じるし、表情の魅力的な役者は、その表情が際立つように演じてみせる。また、スターと呼ばれる人たちは、どんな役を演じていても、魅力的な素の自分が見えるように演じる。キムタクは、どんな映画やドラマでもキムタクだ。


 逆に言うと、魅力的な人物でないと、魅力的に演じることはできない。
 表面をどう取り繕うかが問題ではない。役者に求められるのは、深いところから、いかに魅力的な存在になるかということだ。「演じる」ことに必要なのは、成長であり、人間的鍛練なのである。


 しかし、高校生は、まだまだ未完成でつたない。未完成だからこそ、演劇部員は憑かれたように稽古に取り組む。「これでいいや」とはならない。それは、おそらく、舞台が楽しい場所であると同時に、コワイ場所であることを、実感しているからだろう。一筋縄ではいかない。ナメたら手痛いしっぺがえしを食らう。彼らは、すでにそのことを知っているからだろう。


 5月、「楽しい芝居がしたい。笑わせる芝居がしたい」と無邪気に言った。そして選んだのが、この「いるか旅館の夏」。しかし、笑わせる芝居がいかに難しいか。彼らは身を持って実感したと思う。舞台をなめたらアカン。こなすには、もっともっと人間的に成長しないとダメだ、時間は限られているゾ。顧問からは、そんなメッセージを送り続けた4カ月だった。


 「いるか旅館の夏」には、未熟さと、成長の刻印が混在している。そのアンバランスこそが、まさに、彼らの今の姿である。そして、彼らの「いま」が刻みつけられたこの瞬間は、変わっていく過程の連続である。


 近い将来、サナギが蝶に変わるように、彼らは変貌していくのだろう。それが予感されるから、同じ時を歩めない私は、せめて今の彼らの姿を瞳の奥に刻みつけておこうと思う。演劇が風に書かれた文字ならば、それに没頭する部員たちの夏もまた、二度と帰らない、一回性の瞬間である。帰らないがゆえに、その瞬間は、愛しくそして美しい。
 そういうわけで、彼らなりの、ひと夏の落とし前を、ぜひ目撃してほしいと思っている。どうかよろしくお願いします。