第26回高知県高等学校演劇祭その8


第26回高知県高等学校演劇祭 その1
第26回高知県高等学校演劇祭 その2
第26回高知県高等学校演劇祭 その3
第26回高知県高等学校演劇祭 その4
第26回高知県高等学校演劇祭 その5
第26回高知県高等学校演劇祭 その6
第26回高知県高等学校演劇祭 その7


14 高知東高「昭和みつぱん伝」作/タカハシナオコ そして 終わりに


 この上演は、驚くべきことに、ほとんど動きがなかった。舞台装置は机と椅子のみの簡素なもの。登場人物はふたりなのだが、場面ごとに、ほとんど立ちっぱなしだったり、座りっぱなしだったり。それも結構舞台の奥まったところで芝居は進行する。幕をセメることもしないので、舞台はとても広く感じられた。セリフに力があれば、それでも見せることはできるかも知れないが、セリフは高校生の平均的なもの。ああ、これは動くつもりがないのだな、と思って、舞台を見るのを半分、あとは前もって審査員用に配布されていた台本を追いながら見た。


 こうしたスタイルは自覚的にやっているのではないと思う。おそらく「動く」というところまで手が回らず、「感情の変化に連動する動作のメカニズム」に無自覚なまま上演されてしまったのだ。稽古不足、と言ってしまえばそれまでだが、こうした無自覚さは、何も高知東高にだけ見られるわけではない。多くの高校生は、俳優としては発展途上なので、舞台での処し方について、無自覚な部分が多かれ少なかれ見られるものだ。そうした「素の部分」を「高校生らしさ」に結びつけることで、逆に「高校生としての存在感」を感じさせ、優れた成果を残す上演もある。今回で言えば、高知工業がそれにあたるだろう。


 かと言って、高知工業高とて自覚的に「高校生としての存在感」を際立たせようと芝居作りをしたわけではないだろう。高知工業高も高知東高も無自覚なまま上演したのに、高知工業高の方が成功したのはなぜか。それは、高知工業の役者が、一瞬一瞬の「いま−ここ」にある「動作やセリフの条件反射的な連続の過程」に一心不乱に集中し、神経を鋭敏にしていたからだとオイラは思う。段取りで動くのではなく、直前の入力に「リアクション」してセリフや動作が生じる、そうした緊張感のある関係性を上演中保持する、それが「役者の仕事」である。少なくとも高知工業高や高知学芸高の役者は、それをなしえていた。そうした一瞬一瞬の動作やセリフのラリーのなかで、登場人物の関係の変化が立ち上がってくる。「関係性の変化」こそ、他ジャンル(映画とか小説とか)と比して、演劇がもっとも効率的に描くことのできることだとオイラは思う。演劇だからこそ「演劇的」に感じられる作品をオイラは評価したい。


 高知追手前高をはじめ、高知には非常に志の高い高校生がいて、様式的なスタイルや、素の高校生から遥かに遠い役柄に挑戦しようとしている。また西村先生の書いた「高校演劇におけるフィクションを考える」を実践しようとしている春野高の上演も印象に残った。高知小津高は、説明しないことに「自覚的」であるように見え、その戦略が成功していた。だが、どんなスタイルであろうとも、瞬間瞬間のリアリティを、台本や稽古場で格闘し、形にしようとする芝居こそが、「演劇的」には純度の高い芝居であるとオイラは思う。だからこそ土佐高は四国ブロック代表として全国大会の出場権を手にしたのだ。また土佐女子高のエチュード部分にも、そうした格闘が感じられた。


 パンフレットを見ると、たくさんの広告が誌面をかざっている。新年度の演劇部の活動が始まってまだ間もないというのに、演劇祭は熱気にあふれ、高校生は主体的で意欲的である。大いなる可能性をオイラは感じる。秋の県大会には、純度の高い「演劇」が並ぶのだろう。とても楽しみです。


 演劇祭優秀賞=高知小津高、高知工業高、春野高 (順不同)
 五月賞=(脚本に対して)高知小津高、(舞台美術に対して)中村高
 優秀演技賞=白木敦志(高知工業高)、出口朝香(春野高)、小笠優輝(春野高)