第26回高知県高等学校演劇祭その7


第26回高知県高等学校演劇祭 その1
第26回高知県高等学校演劇祭 その2
第26回高知県高等学校演劇祭 その3
第26回高知県高等学校演劇祭 その4
第26回高知県高等学校演劇祭 その5
第26回高知県高等学校演劇祭 その6
第26回高知県高等学校演劇祭 その8


13 春野高「いかけしごむ」作/別役実


 見入ってしまった。
 「いかけしごむ」は別役実の代表作。暗い夜。イカからケシゴムを発明したという男に、女は「あなたは赤ん坊を殺してきた」という。男が抱えている袋の中から、赤ん坊の死体が出てくる。自首を薦められた男は死ぬが、その男が抱えたビニール袋の中に入っていたのは、大量のイカだった・・・・。


 登場人物は、それぞれ頑迷そうなおばさんと中年のくたびれたサラリーマンといった設定なのだが、出口さんと小笠くんは、ちゃんと歳月を積み重ねた大人に見える。女からはその図太さやずうずうしさ、男からは小心さや不安定さ、繊細さまでも感じられる。佇まいとして、当たり前のように身につけている(これを「身体化」というのである)。難しい長ゼリフも、器用に小手先で読むのではなく、雰囲気がにじみだすように読むことができる。集中も感じられ、表現の幅がとても広い。セリフに力があるので、役者が正対しなくても、ベンチに座ったままでも、必要以上に動かなくても、単調に思えない。これは驚くべき達成であるとオイラは思う。


 2010年度の四国大会で春野高が演じた「葵上」のときと比べると、役者はより自然に舞台に立っている。「葵上」は、役柄をねじふせようとする気負いが感じられた。これはテキストと役柄の違いによるところだろう。今回の「いかけしごむ」の方がすっと観客の心に入りこんでくる。別役実の台本は、日常と非日常の境目を演技者が行き来することが求められる。春野高の役者のたたずまいは、そうしたテキストの内容によくマッチしている。さらに内容に磨きをかけるために、いくつかアドバイスを書いておこう。


 ステロタイプな表現ではなく、図太さの中に秘められた繊細さや不安定さといった複雑な色に演技を編み上げていくことがより重要。そのためには、役者は自分の中にある類型をなぞるだけに終わってはならない。相手のセリフに耳を傾けて、たっぷりと感じること。そして相手のセリフのニュアンスが変化したら、即座に自分のセリフのニュアンスも変化させられる柔軟な構えを持つことだ。


 常に相手や自分を固定させず、少しずつ変えてみよう。その足をほんの少し動かしてみよう。相手のセリフを受けてみよう。猫なで声で言ってみよう。体の緊張を緩めてみよう。自分たちの常識から逸脱してみよう。当たり前の表現にならないように、思い込みをなぞらないように、繊細にいろいろと試してみよう。自分がうまく読もうという欲を捨て、穏やかな心持をベースにして、よけいなことは考えず、ただ反応のみに神経をそばだてる。もっと柔軟に「いま−ここ」を感じよう。今回の演劇祭で言えば、ちょうど高知工業の人たちは、こうした構えを持ちえていた。


 舞台美術について。クレヨンの絵、赤ん坊の死体が少々わかりにくい。また、占い師の道具が置いてある下手のスペースと、ベンチがある中心のスペースが、それぞれ単サスでふたつに区切られているのには、違和感を覚える。ひとつのアクティングエリアとして照明をあてるべきだし、装置を強調するために単サスを当てるにしても、平凸ではなくフレネルの、輪郭がぼやけたサスライトを利用すべきだろう。



12 高知西高「dearest」作/山川真理恵


 都会の高校でいじめられた鈴は、7年ぶりに故郷に帰ってくるが、幼なじみの翔と美咲に出会うことによって、癒されて都会へ帰っていく。3人の淡い恋愛模様がかいまみえる作品。
 芝居を観たあとの第一印象は、しっとりとしたドラマといった印象だったが、台本を読んでみると、結構コミカルに書かれている。とくに美咲はボケ役・いじられ役として書かれている。「てっきり漫才部かと」というセリフもある。台本と実際の上演との落差には驚いた。


 台本はよく書いている。登場人物の細かい心情を読み解いて、その繊細な変化を台本に綴っていこうという努力は評価したい。セリフのつながりや流れも自然である。コミカルな台詞が立ち上がらないのは、おそらく意図されたものではなく、演技・演出面に関する技術的な問題なのだろうと思う。テンションや感情をメリハリをつけてアップしたり、感情解放のトレーニングを積めば、芝居の雰囲気は一変するだろう。


 台本では不自然でなくても、実際演技する中で聞くと、不自然に聞こえる台詞がいくつかあった。たとえば「今は美咲の方がおしゃれじゃん。私の方が憧れちゃうよ」という鈴のセリフがあるが、不安げに、劣等感があからさまに感じられるような過敏さで発せられる。
 あるいは鈴の「あはは、こんなに喋ったの久しぶり!」という何げないセリフに対し、翔が「久しぶりって」とツッコミを入れるセリフがあるのだが、翔の台詞は軽いツッコミではなく、とてもバツの悪い告白を聞いてしまったかのような、シリアスな口調で言うのである。その後、翔が「おまえ学校は?」と聞くと、鈴は「学校は・・・」と悲壮感たっぷりに絶句してしまったりする。不登校であることがバレバレである。


 人は自分の本音を隠そうとするものである。相手の言ったことでショックを受けたとしても、平静を装う場合がほとんどだろう。実際に発したセリフのニュアンスと、その人の気持ちは同じであるとは限らない。また「つらい」気持ちの時に「つらい」というニュアンスでセリフを発するのは、セリフで気持ちを「説明」していることにならないだろうか? セリフが説明にならないためには、気持ちとニュアンスが、あえて一致しないようにセリフを企まなければならない。

 
 「高知」という地名が出てくる。具体的な地名は、この芝居の場合は出さない方がいい。「高知」の具体的なイメージが喚起されるからだ。共通語っぽい喋り方も、もしここが高知なら、なぜ方言を使わないか、などの問題が浮上するからである。あと転換がもたつくのが気になる。携帯着信音も大きすぎる。時計でリストカットの跡を隠すのもどうかと思う(リストバンドなら分かるが)。繊細な心配りで芝居つくりをしている面も感じられた。芝居の隅々までそうした配慮を届かせてほしい。