第26回高知県高等学校演劇祭その6


第26回高知県高等学校演劇祭 その1
第26回高知県高等学校演劇祭 その2
第26回高知県高等学校演劇祭 その3
第26回高知県高等学校演劇祭 その4
第26回高知県高等学校演劇祭 その5
第26回高知県高等学校演劇祭 その7
第26回高知県高等学校演劇祭 その8


11 高知学芸高「神さま事情」作/クロカゼ


 参拝客もほとんどない寂れた神社。一見金勘定とファッションにしか興味のなさそうな神様は、本当は慈悲深い神だった。彼女に支える狛犬や唯一の信者の兄妹との心温まる(?)交流を描いたコメディ。


 舞台美術面ではいろいろ問題も多い。冒頭の青い照明のシルエットの場面、その後の暗転も長すぎる。幕開きは正直ハラハラしながら観た。また石段が下手側に配置されていいて、ケコミが貼られてない。平台の木がむきだしだった。上手側の、狛犬が乗る石は、リアルな石の質感が出るように塗装されているのだから、舞台の道具のトーンを統一する必要があるだろう。また、石段(あるいは神殿あるいは神様を象徴するもの)はセンターに置くべきである。下手に置くと、いくらいい加減な神とは言え、神様の持つ権威性が薄れてしまう。いやそもそも立派な石段などを作る必要はないのである。センターに平台は一段。それだけでも、そこは神的な空間になると思う。


 そうしたスタッフワークの危なっかしさに対し、役者の演技はとてもしっかりしている。その対比がちょっとした驚きだった。役者が真面目に「演劇」に取り組んでいる。役と登場人物の気持ちに集中してコミカルでテンポがよく、メリハリの利いた演技。シンプルな展開の中に、お互いの動作やセリフに対し反応がきちんとなされて、その丁寧な連続がきちんと綴られていた。そこに「演劇」という確かな行為をオイラは見たのだった。


 この演劇部の人たちは、まっすぐに「演劇」に向かっている。このことは大いに称賛されるべきことだ。過去の自分に自戒をこめて言うのだけれど、真面目だけれど、演劇とは正反対の、間違ったことを一生懸命して芝居を作った気になっているということが、高校演劇ではかなり見られる。
 高知学芸高の皆さんが、間違わずに「演劇」に向かいあえたのは、おそらく台本の力もある。一見コミック風に書かれた軽佻浮薄なネット台本。だがその基本的な部分がきちんと書かれているのだろう。そうした幸福な出会いが、この成果につながっている。


 神様であるオバサマ役の毛利さんは、リラックスしてオバサンっぽい雰囲気をうまく醸し出しており、とてもいい。空気をうまくつかんでいる。コマイヌ役の長崎さんは中学生だが、神様を思う純情がよく出ており、気持ちがよく入ってその気持ちが伝わってくる。役の気持ちを解釈し、その気持ちをきちんと表現すること、これが役者の仕事のもっとも大切なことである。コマイヌが犬の動作をして馬鹿にされるというギャグは、とても面白いので、もっと使ってもよかっただろう。兄妹役の人たちは、場面が変わったときに、年齢や成長による変化が見られたらもっとよかったと思う。全体的には、真面目でひたむきな芝居作りがとてもよい雰囲気を醸し出していた。




10 岡豊高「コイたるもの」作/篠智美


 雨の降らない日本のある村。記憶をなくした行き倒れの男は、雨を降らせる機械の設計者だった。SF的設定と土俗的設定を融合した作品。地球的気候変動も視野に入っており、観客が世界に入るために物語設定をかなり説明している。単純な「説明」は、演劇をたちあげるうえでマイナスの要素である、ということはすでに述べた。演劇を立ち上げるために必要なことは、中村高のところでも述べたが、イメージを明確にすることである。


 ドラマのほとんどは、モダンリビングといった印象の室内で進行する。登場する少年少女たちも理性的で、我々の時代とそれほど変わりがない。一方で、そこは生け贄をささげ雨が降ることを乞い願うというオカルティズムの世界である。また一方では、雨が降らず文明が崩壊しようとしている限界的な状況であることが知らされる。なのに雨乞いの踊りは、観光化・現代化された今の豊作祈願の踊りの雰囲気で、片手間でやっている感じである。こうした矛盾する設定の要素が明確な像を結ばない。さらに登場人物が室内の設定でクツをはいていたりするものだから、どう見たらいいのか、観客は混乱する。


 さらに、場面転換が多く、物語は直線的に展開する。ストーリーがいたずらに展開すると、登場人物の存在感は立ち上がらない。これも演劇が立ち上がることを妨げる要素である。また、ドラマは部屋の外で展開する。語られるのは外部の「行き倒れの男」をめぐる「説明」である。当の少年少女がどんな日常を送っているのか、その実態はほとんど描かれない。


 演劇は、演劇でないと成立しない表現を目指すべきだ。でないと「何で小説にしなかったの?」ということになってしまう。


 大昔の話で恐縮だが、1990年、自分の指導する学校が最初に四国大会に出場したとき、審査員は篠崎光正だった。彼は審査にあたり「演劇的という基準で評価する」と言い、自分の関わった作品は「この作品の作られ方は文学的である。演劇的でない」と斬りすてられた。
 その当時、オイラは篠崎光正の言った「演劇的」の意味が正直よく分からなかった。「演劇的とはどういうことだろう」とずっと考えた。その後、別役実に出会い、エッセイ「電信柱のある宇宙」(必読!)を読み、その他多くの演劇人から影響を受け、何となく自分の演劇観が作り上げられてきた。


 演劇は演劇でしか表現できない表現を追求するべきだ。小説や映画やテレビの方がうまく伝えられることならば、小説や映画やテレビでやればいい。演劇は極めて不自由な表現形式でしかない。少ない人々を、決められた時間に決められた場所に拘束し、早送りも巻き戻しもできない、アップもできないのだから。


 それでも演劇でないと追求できない表現がある。それは、ひとことで言えば「関係」だ。「いい天気だね」「そうですね」何でもないセリフを発するだけでも、そのニュアンスは無限にバリエーションがある。細かいニュアンスを小説で描こうとしても「…と言った」などと、…の部分に、いたずらに多くの言葉を費やさねばならず、効率的ではない。映画やテレビドラマなら、そもそも何げないあいさつなど一顧だにされない。アップやカット割が入り、ストーリーが優先される結果、連続した時間や空間の流れが寸断され、セリフの連続による関係の円滑な変化やら、登場人物の身体や存在感やらは、うまく立ち上がらない場合が多い。この点演劇は、プロセミアムの中に連続した時間を保持することができ、役者が連続したセリフを発することで、Aという関係がA´に変わっていく、そのプロセスを写し取ることができる。それが演劇の利点だ。


 芝居中に、不用意な暗転を入れたり、無関係の場面を挿入することは、連続した時間や葛藤の流れを寸断することにつながる。演劇としての力が殺がれるからこそ、一般的にタブーとされているのである。


 技術的な指摘をいくつか。照明でエリアカッターを使っている唯一の学校だったが、前明かりが均一な当たりでなく、影ができるのが気になる。また、役者が入退場する際、奥に吊りさげられた幕の横を通るために、幕が揺れるのが気になった。演技的には、正面を切る演技が多いのが気にかかる。また、ひとりで演技をしている役者がいた。演技はひとりでするものではない。他者の動作に対する役者のリアクション、その連続の過程そのものが演技である。他者の反応に関係なく、ひとりで演技すると、夢遊病のように見えてしまうので注意。


 終盤、登場人物たちは、男を生け贄にささげようとする村長たちを説得に行く。村長たちも物分かりがいい。子供(含姉)の説得で、生け贄の儀式をやめてしまう。だがもし頑迷な村長たちで、生け贄の儀式を止めないと言ったらどうするだろうか。この登場人物たちは、実力で阻止し、男を救出するだろうか。いや、そうはするまい。このドラマの登場人物たちに、そうしたリアリティはない。かつてのドラマなら、頑迷な村長たちを阻止し、陋習をやめさせ「革命」を起こすのが若者の役割だった。そうならないところに現代が刻印されている。