第26回高知県高等学校演劇祭その5


第26回高知県高等学校演劇祭 その1
第26回高知県高等学校演劇祭 その2
第26回高知県高等学校演劇祭 その3
第26回高知県高等学校演劇祭 その4
第26回高知県高等学校演劇祭 その6
第26回高知県高等学校演劇祭 その7
第26回高知県高等学校演劇祭 その8


9 中村高「それでも世界は回ってる」作/結城翼


 結城翼先生の8年ぶりの新作。黄昏時、文明の崩壊をおもわせる瓦礫の山に集う生者と死者が、生きる意味について話をする。オイラは別役実の世界を頭に浮かべながら見た。生と死、文明と廃墟、昼と夜、絶望と楽観、相対する世界の狭間に舞台を設定し、互いの世界を演劇的にフレキシブルに行き来する仕組みを作ろうとしているのかのように見えたからだ。


 力の入った美術に驚く。ゴミや落ち葉などをうまく配置して、廃墟の雰囲気のある舞台を作っている。聞けば会場の近くのゴミや落ち葉を集めて舞台を飾ったとのこと。台本の求める世界を、成立させるための努力とアイデアがうまく機能していると思う。


 登場人物は、一人(掘る女)を除いて死んでいるという設定。「掘る女」はボソッとしたセリフが印象的。けだるく、ほどよく力が抜けていて、いい雰囲気が出ている。台本は、登場人物が生きているのか死んでいるのか、万人が分かるように直接的に描かれていないので、まずは生者と死者をもう少しわかるように描くといい。衣装のトーンを変えるとか、何らかのシンボルを身にまとわせるのもひとつの方法である。


 役者はイメージをもってセリフを読もう。劇中で死者は自分の身の上を語る。そのひとつひとつがいじめ、ストーカー、貧困死といったショッキングで現代的な死。そうした死を当事者としてしっかり感じながらセリフを読もう。ステージ効果は、その役者を補助するように使用しよう。セリフが説明として読まれると、たとえ言葉が語られていても、意味内容が観客に入ってこないということがよくある。分かりやすく作ることが大切だ。それはドラマの構造や登場人物を単純化することではない。やたら単純で幼くデリカシーのない類型的な人物が登場するドラマのいかに多いことか。そんなドラマをなぞってはいけない。分かりやすく作るということは、イメージを明確に伝えることで達成されるべきことである。


 セリフは難しい。このことを念頭において、芝居作りを考えると、向かうべき道はふたつあるように思われる。ひとつは、セリフを徹底的に磨くこと。そしてもうひとつは、「振る舞い」「たたずまい」「動作」をうまく生かす芝居つくりを目指すこと。この芝居では「掘る」という動作が、セリフの意味内容より、とても強く印象に残った。




8 高知高校心友」作/H


 繊細な男子高校生二人が、謎のマントの女二人組の力を借りて友情を深めていく。
 芝居は現実を映し出す鏡である。作り手の繊細さやナイーブさが演技や内容に反映されている。この芝居から透けてみえる高知高の演劇部の人たちの姿は、悪い感じはしない。おそらく穏やかでいい人たちなのだろう。浪川響を演じた山中翼君は高校3年生だというが、もし県コンクールに出られるのなら、善良さゆえに傷ついていく人の物語などを演じれば、とても雰囲気のいい芝居ができるのではないかと夢想した。


 ただ芝居は観客に観せるものである。部員間だけで完結しない。観客にどう見えるかという視点なくして、表現は成り立たない。その点において、この演劇部の人たちは無頓着な感じがする。通しができるようになったら、部員以外の人に芝居を見てもらった方がいい。とくに大人の視点は大切。顧問の先生や、活動を好意的に見てくれる人を呼んで意見をもらおう。そして厳しく意見を言ってもらおう。そうすれば、この芝居の問題点のいくつかは解決するだろう。


 たとえば、なぜ男子が一人しかいないのに、こういう話を選び、女子が男子役をしたのか。何かの事情があったのかもしれないが、女子部員が第2次性徴期以後の男子生徒を、男子の制服を着て演じるのは、違和感がある。
 また台本的には、少年たちが問題の解決を主体的に行わないことが弱点だと思う。片方の少年に悩みがあることが、マントの女によって、もう一方の少年に明かされる。そしてその解決のお膳立てをするのも、マントの女たちなのである。その肝心のマント二人組は、どんな人たちなのか、よくわからない。ドラマの輪郭がぼんやりとぼやけて見えてしまう。


 舞台について。場面転換が多い。できるだけ転換が少なく芝居がつくれないものか知恵を絞ってみよう。S.Eが大きいのも気になる。大道具、小道具に配慮しよう。最初のシーン、資料室のような場面で、カラーBOXがふたつ使われているが、カラーBOXは所詮カラーBOXである。資料室や図書室にしては簡便すぎると思う。
 演技について。演技は気持ちと連動するのが原則である。仕草が「フリ」で終わってはならない。またセリフが説明的。少年たちが登場する場面の最初の場面はこんなセリフで始まる。「お、久しぶり! 要(相手の少年の名)、最近不登校だったけど、どうしたんだ?」不登校の人に、ストレートに「不登校だったね」と聞くのはどうだろうか?