鈴木忠志「演劇とは何か」岩波新書


演劇とは何か (岩波新書)

演劇とは何か (岩波新書)


 1988年発行。「SCOT」主宰の鈴木忠志が、自らの具体的な実践に基づいて、演技。演出、劇団などそれぞれの方向から、演劇とは何かということについて、鋭く深く記した書である。かなり前の出版であるが、今読んでも刺激的で触発される。読みながら、オイラは改めて認識の狭さに気づかされた。


 演劇と聞いたときに我々がすぐに頭に浮かべるのは、テレビや映画でも見られるような対話を基本とした会話劇である。俳優は対面して会話する、心情や心理を表現することが俳優の目的である、近代リアリズム劇に慣れた我々は、それが当たり前だと思っている。


 ところが、演劇の世界は広い。「対話を基本としたリアリズム劇」という枠組みに収まりきらない演劇は実はたくさんある。能や歌舞伎、ギリシャ悲劇などがそれである。ギリシャ劇は観客は二の次で、神に見せるものだったという。だから舞台には中心が存在し、俳優は神に正対した。言葉が相手役に発せられ、俳優も横向きになり、語りかける言葉の距離が身近で小さくなった近代リアリズム劇とは大きな違いがある。俳優が「神よ照覧あれ」と言うとき、近代リアリズム劇では、人間の心理を表現したセリフということになるが、ギリシャ劇では、この言葉は神に直接向けられた言葉だったのである。


 近代リアリズム劇の範囲だけで演劇をとらえることは、演劇の可能性を小さく見積もってしまうことになる。本書は、近代リアリズム劇の「新劇」や、その演技の方法論であるスタニスラフスキー・システムの限界についても批判的に言及する。「新劇」も最初は、異質なものを持ち込むことで、日本のそれまでの演劇のルールと対立し、緊張関係を生み出しながら新たな観客を作り出していったはずだった。だが、今の新劇は「現代」を批判的にとらえきれず、「新劇界」と呼ばれる狭い約束事の世界に安住し、新たな観客を獲得することもできずに、古い左翼的な共同体演劇として失速してしまっている。


 今の文化状況は、ちょうど缶ビールのラベルが何十種類も店頭に並べられているように、表層は違うが、中身はどれもビールでしかないといったようなもの。現代は、管理され、日常性が蔓延し、画一的な社会。多くの演劇は、共同体的な同質性を確認するためだけになされているのが現実である。これを乗り越えようとするのが鈴木忠志の実践であるとオイラは理解した。鈴木は、ギリシャ劇や能や歌舞伎を引用し、異質なものを取り込んでいくことで、逆に現代の日本を相対化し、その文化状況を批判的にとらえてみせるのである。


 そして、鈴木忠志がやろうとしていることは「演劇」であるから、それは「身体」によって具体化され達成される。鈴木は言う。「俳優の俳優の演技の本質は、身体感覚の多様さを遊び楽しむことである」と。単に古典の「型」を真似ただけでは駄目だ。一見抽象的でわかりにくい能や歌舞伎の中にも、日常生活と結びついた「身体感覚」がある。それを手がかりに、古典を理解し引用することが、現代社会を考えることにつながるのである。歌右衛門の「型」の場合、それは歌右衛門が創り出したというだけでなく、そこには集団の歴史性がある。日本人の文化と通底しているがゆえに、日本の文化や日本人について考えさせてくれるのだ、そう鈴木は言う。


 また鈴木忠志の実践は、狭い範囲で完結するものではない。「新劇」という古い枠を打ち破り、「演劇」そのものを変革し、ひいては今の日本のありかたを批判的にとらえていこうという「運動」である。そのための劇場や劇団が必要となるのは必然であり、利賀村でのSCOTの取り組みがあるのだと実感できた。書かれてから20年以上たつが、本書の問題意識はまったく古びていない。必読。